一神教全史…大田俊寛著

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 河出書房から出版されている「一神教全史」(上下)をやっと読み終えた。前々から一神教については、きちんと理解しなければならないとは思っていたが、読もうと思った動機は、やはりイスラエルとガザの問題がきっかけである。ともに一神教の国家であり、民族である。フィフィさん曰く「宗教はあまり関係ない」とは言え、やはり根幹の部分を理解しないといけないと思った。
 大田氏いわく、「宗教とは、『虚構の人格』を頂点に掲げ、そこから発せられる『法』を紐帯として、『共同体』を結成することであること」という。ここでキーワード、「『虚構の人格』『法』『共同体』というのはいずれもフィクションにすぎないが、それらが実在すると『信じる』ことによって、社会的制度を維持し、世代から世代と生を紡いできた」(上巻P22)というのは、宗教の本質をうまく表している。この冒頭部分に書かれた宗教の定義に惹かれて読み始めた。
 読後の感想だ。まず、いまだに一神教というものを肌感覚で理解できない。やはり、『神』の存在はフィクションとしか捉えられないのである。「神」を巡って、自分の命をかけるというこの生き方が理解できない。ただ、次の三つのことは理解できた。

 一つ目。ホッブズやロックといった近代国家論の提唱の前には、カトリックとプロテスタントの血で血を洗う凄まじい宗教戦争があったこと。世界史の授業で習う宗教改革であるが、ドイツ30年戦争も言葉では知っているが、その凄まじさは、この本を読むまでは実感できなかった。もし、日本で宗教戦争があったらどうなるか。昔、京都で天台宗と日蓮宗の戦いがあったらしい。京都が焼け野原になって、応仁の乱よりも酷いことになった。天文法華の乱という。これも何年も続いたというものではなく、京都から日蓮宗が追い出されはしたが、6年後には布教活動が赦されている。30年間宗教戦争が続くということが理解できないのである。それほど、相手を憎めるだろうか?ここに一神教の恐ろしさが潜んでいるように思う。

 二つ目。現在よく耳にするイスラム原理主義という言葉である。これも、イスラム原理主義=過激派=テロリストというイメージが定着している。しかし、イスラム原理主義とは、西欧の物質主義に反し精神の世界を重視するため、もう一度コーランの世界に立ち戻ろうという運動である。こう書けば、中世に世俗の権力と結びつき、王権とともに教権として、民衆を支配した教会に対して、「もう一度聖書の世界に戻ろう」と訴えた宗教改革に似ている。ところが、コーランの中には、異教徒はもちろん、コーランに書かれていることを忠実に守ろうとしない同じイスラム教徒にさえ、「ジハードを行え」と書かれている。これは過激に理解してしまうと、過激派となりテロを起こすことに何ら躊躇が無くなってしまうのである。
 
 三つ目はアメリカ社会である。ニュースをみていて、よく耳にするのが、「福音派」という言葉である。共和党支持者の中の1/3や1/4が福音派らしいが、彼らは、聖書に書かれいることが真実であると信じている。本当に信じているのである。キリストの再来もハルマゲドンも、本当に信じている。学校で、ダーウィンの進化論が教えられることが赦されないのだ。だから、聖地であるエルサレムが異教徒であるパレスチナ人の支配下に置かれることは、絶対に許されないと思っている。だから、福音派は、そして共和党は、イスラエルを絶対支持する。ウクライナよりもである。また、黒人解放で有名なキング牧師は、南米バブティスト教会の牧師と初めて知った。この宗派も、頑迷な宗派であり、聖書第一主義なのだ。

 このように考えると、人類の歴史の中で、一神教というのは、プラスの役割をしてきたのだろうかと思ってしまう。神の教えは唯一絶対だが、その神の教えを預言したのは人である。モーゼであり、キリストであり、マホメットなのだ。神の教えという形と取りながら、その人の思想を述べたに過ぎない。それが唯一絶対と思わせてしまうところに一神教の怖さがある。一方、多神教はどうだろう。古代ギリシャもそうだし、そのギリシャにあこがれたローマ帝国も多神教である。日本は今でも多神教だ。相手が信じる神を認めるのが多神教なのだ。だから、日本では宗教戦争が起こりにくい。もしかすると、これは世界最先端で、最も優れた宗教観なのではないか。世界は、今の国連の状況が象徴しているように、硬直状態にある。多神教の国である日本はもっと多神教を先進的にアピールし、「多神教こそが世界を救う!」と言って良いのではないかと思うようになった。それがこの本を読んでの収穫である。


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