「『好き』を育み、『得意』を伸ばす」で良いのか?

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 次期学習指導要領の素案の中に、「第2章 次期学習指導要領に向けた基盤となる考え方」がある。学習指導要領の根幹に当たる部分だ。その(3)に「自らの人生を舵取りすることができる民主的で持続可能な社会の創り手の育成」という章立てがある。その①に、【「『好き』(興味・関心)を育み、『得意』を伸ばす」と「当事者意識を持って、自分の意見を形成し、対話と合意ができる」の両輪の必要性・関係性】という項目があるのだが、読んでいてどうも理解できない。

 (2)の章で示した「多様な子供たちの『深い学び』を確かなものに」していくことを通じて実現したい「子供たちが学校教育を終え、未来の社会で活躍するときの姿」として、「自らの人生を舵取りすることができる民主的で持続可能な社会の創り手」を挙げている。この子供像については、異論はない。というより大いに賛成だ。そのために必要な教育として、【「『好き』(興味・関心)を育み、『得意』を伸ばす」と「当事者意識を持って、自分の意見を形成し、対話と合意ができる」といった二つの方向性を両輪で推進していくことが必要】と記載されている。この部分が理解できない。

 「当事者意識を持って、自分の意見を形成し、対話と合意ができる」ためには、「好きな教科」や「得意をのばす」だけではダメだと思う。そのような教育を行ってしまえば、「当事者意識を持って」自分勝手に育ってしまう。「対話と合意」ができなくなるエゴイストが育ってしまうのではないかと危惧する。確かに学習の最初の段階では、「興味関心」も重要だ。入り口はそれでよい。しかし、それだけでは「食わず嫌い」を生み出してしまい、偏った知識、偏った意見を持つ子供が育ってしまう。いくら読んでも「好きを育んで、得意を伸ばして」なぜ当事者意識が育つのか理解できない。

 こんな素案では、言葉が独り歩きする危険性がある。確かに、「そもそも、今後の社会は、多様な他者が協働しながら複雑な課題を解決していくことが不可欠となる。そうした社会をイメージするとき、「『好き』(興味・関心)を育み、『得意』を伸ばしながら、それらを原動力として学び全体への動機付けを図っていく」と記載されているが、全体を通した印象は、「好き」「得意」が強調され過ぎているのだ。

 学習指導要領が変わる度に、教員というのはなぜか左右に大きく振れる。過去にも大きく振れ過ぎたことがあった。自由進度学習や自己学習調整などとかも言われているが、食わず嫌いはダメである。小学校段階からこのような教育を行っていれば、好きなことだけ行う子供が増える。特に算数・数学については、苦手や嫌いな生徒が多い中で、益々理系離れを促進してしまうのではないか。それは、国の理系人材育成とも大きくかけ離れる。
 誤解を生まないように研究者も警鐘を鳴らしてほしい。


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