「部活動全国大会必要?」というタイトルで、3月14日の読売新聞の「The 論点」に全中大会の事が掲載されていた。必要だという論の中に生徒、顧問、専門家の声として次のような内容が掲載されていた。
生徒:「全国大会は高いレベルと緊張感を味わえる貴重な機会。ハンドボールはマイナーな競技かもしれないけれど、全力を注いでいる僕たちの事も考えてほしい」
顧問:「目標に向かって努力する中で、成長が得られる」
専門家:「全中での優勝が自信になり、より上を目指そうと思うきっかけになった」
「一体感や団結感が得られ、人間としても成長できる場所が全国大会。こうした機会を大人が用意してあげることが大切では」
という内容だ。私は、これらのコメントが、どうしても「勝者の論理」と見えてしまうのだ。全中は、中学生全国一を決める場である。100人、100チームが出場すれば、一人、1チームの勝者と残り99人、99チームの敗者が決まる仕組みだ。勝者になれば、大会の意義も語れるだろうが、敗者はどうだろう。まして、全国大会に出ることができなかった中学生は、わんさかいるのだ。その子たちの成長、教育的意義を考えたときに、全中の意義は何なのだろうと考えてしまう。
私が全中に疑問を持つのは、次の点だ。
疑義1:中学生はまだまだ成長過程の真っただ中にいる。体も心もどんどん成長していく。そんな成長過程の中にある中学生にとって、ある時点の全国一ということがどれほど価値のあるものなのだろう。例え、全中1位になってもインターハイにも出られなくなることもあるではないか。それなら、自分の体と心と技の成長にじっくり付き合っていくのが良い。背伸びしてケガをしてしまうと、一生スポーツから離れてしまう危険性もある。
疑義2:敗者を決める全中よりも都道府県単位、地域単位のリーグ戦の方が、出場機会も多く、そして成長する機会も多い。リーグ戦を行う方が、より多くの中学生の出場機会がある。部活をやっているけど、チームが勝つためにレギュラーになれなかった、試合に出ることができなかったでは、何のために部活に入ったかわからない。
疑義3:教員の負担と教育的効果を考える時、教員の負担が大きすぎる。疑義1・2で述べたように、全中大会には中学生全体の事を考えた教育的効果が薄い。それに比して、開催地の教員の負担は並大抵のものではない。記事にも「開催年は、夏休みが無かった」と掲載されていた。世の中、教員の働き方改革を進めなければならない、教員の仕事をスリム化しなければならないと言っているのに、全中大会は逆のベクトルを向いている。
疑義4:少子化の進行。これからどんどん少子化が進んでいく。マイナーなスポーツはもちろん、メジャーなスポーツでさえも部員確保が難しい。高校でさえも合同チームが結成されているのだ。もっと中学生の部活はスリム化すべきだろう。
疑義5:一流をめざしたい生徒は、地域のスポーツクラブで頑張ればよい。それこそ、スポーツ経験の乏しい教員に教えられるより、専門家に教えてもらえば良い。そして全国をめざす大会も中学教員ではなく、スポーツ団体が主催して行えばよい。水泳が良い例だ。
疑義6:日本一をめざす全中は、どうしても勝利至上主義の温床になる。そこには、過激な練習や暴言暴力が飛び交う土壌となってしまうのだ。
以上、思いつくまま、全中大会疑義を並べてみた。全中の競技は縮小されたが、それはスポーツ人口が少ないからで、根本的は発想は変わっていない。もっと多くの生徒がスポーツに関わって成長する方法を関係者は考えるべきだろう。
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