継体天皇

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 中公新書の「継体天皇 6世紀に現れた世襲王権の『始祖王』」(河内春人著)を読んだ。読もうと思ったのは、やはり皇室典範改正に関することが世の中を騒がせていたからだ。この本を読む前の継体天皇のイメージは、北陸の地方豪族が天皇の遠縁で、畿内の天皇の血筋が途絶えたので、大和に乗り込んで天皇の血筋を継いだというイメージだ。大体は、間違っていないのだが、この本を読んでより詳細なことがわかった。

 まず、継体天皇以前はどのような状況であったかという事が衝撃的だった。応神天皇から続く系譜であるが、前方後円墳の作られた年代やその規模から、天皇を出す王族も古市集団と百舌鳥集団があったということだ。現在の大阪府羽曳野市(古市集団)と堺市(百舌鳥集団)である。仲哀天皇-応神天皇は古市集団の出だが、その後の仁徳天皇は百舌鳥集団の出である。つまり、この当時の天皇というのは、いくつかの王族から適任と思われる人物が天皇に選出されるという時代であったらしい。つまり世襲ではない。そして、仁徳系の天皇である武烈天皇が後継者を決めずに亡くなったことにより、仁徳系の天皇が断絶することになってしまった。そこで、王の血を引く人物を探すことになったという。

 継体天皇の事を語る前に、この時代の王族だが、権謀術数、陰謀が渦巻く時代で、兄弟で殺し合い、追放等様々なことが起こり、天皇が継承されている。また、この時代、人(天皇)と神が混在した時代で、今の今上天皇から明確にさかのぼることができるのは、継体天皇までである。だから、「世襲王権の『始祖王』」というタイトルがついている。

 面白いと思ったのは、物部金村を中心に次の天皇を探している時、最初に白羽の矢が立ったのは、丹波国の倭彦王である。倭彦王は、仲哀天皇の5世孫である。金村が倭彦王を迎えに軍隊を従えて丹波国に行ったとき、倭彦王は軍が攻めてきたと恐れをなし、逃亡して行方知れずになってしまった。
 困った金村は、応神天皇の5世孫である男大迹王(継体天皇)に目を付けたという事だ。偶然にも倭彦王と男大迹王は天皇の5世孫である。これは、日本書紀が作成された時代には、5世までが王族と考えられていた所以のようだ。だから、本当に5世孫かどうかはわからない。後の創作という事も有りえる。

 継体天皇は、北陸の豪族とイメージされていたが、継体天皇に続く王族は、近江から淀川水系に勢力を持っていた。たまたま男大迹王の父親が早世したために、母親の実家である越前で育てられたという事のようだ。継体天皇の陵墓と言われている今城塚古墳は、三島地区にある。北陸集団というよりも継体天皇を輩出した王族は三島集団と言う方が実態に近い。おそらく淀川水系、琵琶湖から北陸の要衝を押さえていたと思われる。天皇に即位したのも樟葉宮、今の大阪府枚方市だ。

 現在国会で議論されている養子について、今上天皇との親族関係は、36親等から38親等という事らしい。ここまでくると、旧宮家と言っても親戚でも何でもないと思ってしまうのが、現代人の感覚だ。それなら5世孫と言われている継体天皇の方が余程血筋としては近いと言えよう。

 確かに男系天皇として今まで継続してきた天皇の系譜を女系容認とするのは、今後の日本人にも影響を与えるだろう。昔のように一夫多妻制の時代ではなく、一夫一婦制の時代での天皇家の継承と考えたとき、このような養子案というのも苦肉の策としてありうるのではないか。あとは、平成の皇室のように、どれだけ国民に寄り添う皇室であるかが養子容認論を落ち着かせるように思う。

 仁徳天皇系譜の最後の武烈天皇は実在も怪しいと言われているが、悪逆非道の天皇であったと言われている。養子がどのように実現するのかわからないが、もし養子の方のご子息が天皇を継承するなら、天皇の資質を擁している人に継いでほしいと思う。


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