ヒロシマの日に思う

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 今年も8月6日がやってきた。朝8時に職場に到着し、NHK ONEで広島平和式典を視聴した。8時15分には、黙祷した。去年の80年の式典も意義深いものであったが、今年のヒロシマ、そしてナガサキの式典も意義深いものになっている。

 それは、一つにはイラン戦争である。このイラン戦争は、もともとはイランの核濃縮に端を発している。アメリカ・イスラエルが、イランが核開発に向けた核濃縮を行っているのではないかという不信感があるのだ。戦争の発端は、いまこそイランの首脳部を一掃し、国を転覆させることができるのではないかと画策したイスラエルの思惑に、トランプが同調したところから始まった。しかし、結果はご存じのように戦争は混迷に陥り、戦争前よりもイランに有利な覚書が締結された。
 人口学者のエマニュエル・トッド氏は、「イランは核兵器を持つべきだ」と主張する。そうすれば中東に平和が訪れるというのだ。核抑止論からすれば一定の理解をするが、イランが核兵器を持つことにより、核拡散が中東で起こり、益々核廃絶から遠のくだろう。このような国際情勢の中で、もう一度核廃絶に向けた思いを一にする今年のヒロシマ・ナガサキには大きな意味がある。

 もう一つ、考えなければならないのは、平和教育のあり方である。同志社国際高校の辺野古基地建設に関する研修旅行の在り方を、文科省は「政治的中立性違反」と見解を示した。この見解により、左派勢力から「学校現場の萎縮」が問題提起された。辺野古基地の問題について、多面的・多角的に捉えることは重要であり、現実の国際政治の在り方を深く学ぶことが重要である。
 一方、ヒロシマ・ナガサキでの平和教育はどうだろうか。核廃絶に向けた平和教育の中で、核廃絶と対極にある核抑止論を学ぶことが必要だろうか。私は、国際政治の一つの在り方として、核抑止論は学ぶ必要はあると思う。ただ、そこに留まっていてはだめだ。やはり、核廃絶に向けた核軍縮という事を学ばなければならない。
一時期、世界は核軍縮に向かった。ソ連のゴルバチョフ氏とアメリカのレーガン氏の間で、核軍縮が行われたのだ。核廃絶に向けて、核抑止から核軍縮へ、そのために私たちは何ができるかを学び考えなければならない。まずは、日本が核軍縮会議にオブザーバーでよいから参加することである。

それにしても、私の職場では、このヒロシマの日にヒロシマの「ヒ」も出てこない。まるでこの日が無かったように、日常が始まる。たとえわずかでもヒロシマへの想いを馳せることが必要ではないかと思ってしまう。それが唯一の戦争被爆国である日本のアイデンティティ―だろう。


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