工藤氏が行った学校経営によって何を学校にもたらしたかというと、堀越氏がこの本の中で何回も書いている次のことだ。
「集団生活上のルールが無いため、生徒同士の関係性は強弱が基準になります。発言力の強弱、腕力の強弱、学力の強弱など、生徒間のスクールカーストが出来上がっていきます。ルールのない世界では、あっという間に弱肉強食の縮図が形成されてしまいます。本来の学校における安全安心な集団生活が成り立っていませんでした」(p18)
「弱肉強食」「スクールカースト」など、過激な言葉が並ぶが、私も同じような体験をしたことがある。某高校での経験である。いわゆる「教育困難校」と言われる高校に勤務していた。。その学校に赴任した時、生徒指導なるものがほぼなくなっていた。生徒指導の中心にいた教師たちは、荒れている生徒たちとの人間関係を構築することに躍起になっており、毅然とした指導というのはどこにもなかった。生徒と教師の力関係で、完全に乗り越えられていたのだ。そんな学校では、授業妨害は当たり前のように行われており、喫煙行為、暴力行為がたびたび発生した。そういう学校でも真面目に学校生活を送る生徒のほうが圧倒的に多数である。よくドラマで扱われるような荒れた学校は嘘である。一部の力の強い荒れた生徒たちが、力で多くの生徒を押さえつけ、多くの生徒は自分に火の粉がかからないようにおとなしく学校生活を過ごしていた。
当時はスクールカーストという言葉はなかったが、カーストの頂点に立つ生徒の下にいる生徒はその下の生徒をいじめ、さらに下の生徒は、もっと弱い立場の生徒をいじめる。その学校には知的障がいがある生徒も通っており、その生徒を下校途中で待ち伏せし、いじめるということも発生した。いじめているとされた生徒は、決してカーストの頂点にいる生徒ではない。
その高校で私が学年主任になったとき、学年の先生と話をして決めたことは、「真面目にコツコツ学校生活をしている生徒を守る」ということだ。堀越氏風に言うと、「学校の安全安心の確立」である。口で言うは容易いが、実践は容易ではない。上位にいる生徒からターゲットにされている生徒には、常に教師の視線があることをわからせるために、休憩時間は教師が交代で監視したりした。授業妨害も一切許さず、毅然と対応した。このような実践を続けることで、生徒は、学年の先生を信頼してくれるようになった。ある時、「先生、今〇〇が狙われている、守ってあげて」と生徒が教えてくれるようになったのだ。上位にいる生徒からすると、このような行為はいわゆる「チクリ」であり、許されるべきものではなく、チクった生徒がターゲットにされてしまう。それでも、「先生たちに守られている」という安心感から、真面目な生徒たちが情報提供してくれるようになったのだ。
結局工藤氏の学校経営とは何だったのだろうか。生徒の主体性を大事にし、自律的に考え、行動させる。その結果、何がもたらされたかというと、主体的に己の欲望に忠実に、自律的に集団の規律を無視する子どもを輩出してしまったのではないだろうか。
大人社会でもそうだが、法の及ばないところは弱肉強食の世界となる。民主主義社会では、誰しもが、民主的に生きているわけではなく、民主主義社会を維持する法を守らせる強制力があるから維持されているのだ。学校社会では、その強制力は教育的意味の指導を含めて教師が持っているのだ。その教師が指導をやめてしまえば、未熟な子どもたちの社会は、たちまち弱肉強食の社会になってしまうということを世に示した壮大な実験が工藤氏が校長を務めた麹町中学校だろう。

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