キリスト教会に行ってきた


 12月15日の昼から河内長野市の南花台キリスト教会に行ってきた。クリスマスの祝会のチラシが入っていたので、行ってみようと思ったのだ。加東市を離れるときも加東市のバプティスト系の教会に参加した。あの時は、自分の身に起こったいきなりの「転機」をどのように受け止めてよいのか、自分でもどうしてよいのかわからず、教会というものに足が向いた。私は、自分の事をサイコパスに近い心持ちの人間と理解しており、肌がひりつくような緊張感に身を置くことを好んで生きてきた。しかし、そんな自分にも突然の「転機」は、大きな影響をもたらしたのだろう。教会での聖書の話は、心に染み入るとまではいかなくても、なぜか癒される気持ちになった。

 今回参加した南花台キリスト教会は、どこの宗派にも属していないらしい。純粋に聖書を学ぶ教会である。今回の祝会は、チラシにあるように、聖歌隊やギター演奏等会としてはとても楽しむことができた。それに、ケーキとお茶が付いている。建物も大きく、加東市の教会とは比べ物にならなかった。教会の人に聞くと、約20年ほど前に教会が建築されたという。北欧から建材を輸入して建てられており、木がふんだんに使われている。雰囲気とはとても良い。

 さて、深井牧師の話だ。新しい知識を得た。12月25日は、イエス・キリストの生誕の日とされているが、本当は違うらしい。聖書にはキリストが12月25日に生まれたとは書いていないのだ。なぜ、12月25日になったのか。どうも当時の太陽暦に関係しているらしい。そうすると、イエス・キリストの誕生日はいつになるのか。正確には分からないが、様々な聖書の記述から推測すると、9月末ではないかということが研究者の間での結論のようだ。「へー!」と思った。
 聖書の話になった。旧約聖書には、救世主が誕生するという預言が、300か所もあるらしい。例えば、「救世主は処女から生まれる」とか「ベツレヘムで誕生する」とかが預言されているという。その預言の全てにおいて、実際にキリストの身に起こったことなのだという。これは確率的に天文学的数字の割合らしく(実際に数値計算をしたアメリカの研究者がいた)、とてつもない奇跡が起こっているという説明だった。

 教会に行くと神の存在は当然のように言われる。神を信じるところから話が始まるのだ。神は羊飼いであり、人はか弱い羊である。神は全能であり、人は罪深い存在としてある。どうも、人というものの存在が、とても力弱く、みじめで、か弱い、価値の薄いように感じてしまうのだ。無神論者である私は、聖書の話を聞きながら人間礼賛のルネッサンスの事を考えていた。やはり、私には聖書の教えよりも、ルネッサンスの方が輝いて見える。しかし、せっかくの機会だからもう少しキリスト教というものを勉強しようと思う。


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