選挙は戦いだ!


 されど、言論の戦いなのだ。当たり前のことだが、この当たり前のことが成立するまで、人は長い歴史を要したように思う。「ギャング オブ ニューヨーク」という映画をご存じだろうか。1860年代のニューヨークを舞台にしたギャング同士の争いを描いた映画だ。アイルランド移民を演じたのが、主演のデカプリオである。この映画の中で、アイルランド移民とネイティブ・アメリカンの勢力争いが描かれていて、何の選挙かわからないが、二つの勢力が選挙を争うシーンが出てくる。この選挙、不正の嵐である。投票権も何もあったものではない。一人が何回も投票するのだ。挙句の果てに候補者が殺されるという展開だ。これが、160年ほど前の民主主義国家アメリカの姿なのである。不正投票も、暴力も、殺人も、何でもありの選挙のシーンだった。どこまで現実を反映しているかわからないが、この映画の元は、ノンフィクションの小説であるので、時代を映し出していると思う。

 今回の東京15区の選挙は、暴力すれすれ(または暴力事件)の選挙妨害行為だ。しかし、「選挙の自由」「表現の自由」という大前提を考えると、最終的には司法の判断が求められるのではないか。案の定、妨害と言われる行為をしている候補者側は、「これは我々の選挙活動だ」と主張している。公職選挙法の改正をおこなっても、裁判闘争に発展するだろう。しかし、このような妨害行為を許していては、「妨害」「暴力」行為は、益々エスカレートする。早急な対策、改善が必要だろう。

 昔こんな場面に遭遇した。ある選挙で、大阪維新の松井代表と共産党の立候補者が河内長野の駅前で鉢合わせした。双方ともが選挙カーで演説し、ビルに反響するので、うるさいだけで何を言っているのかさっぱりわからなかった。このとき、維新陣営が、譲って先に演説をやってくれとしたようだ。駅前で商売しているおばさんと、「大変でしたね、うるさかったでしょう」と雑談すると「いやー、松井さん、男前やね!やることが恰好ええわ!」と感心していた。このあたりも大阪の維新人気ではないだろうか。

 とにかく、選挙は戦いだが、それは言論の戦いで、力の戦いではない。力の戦いを許したら、いつか「ギャング オブ ニューヨーク」の世界に戻ってしまう。


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