「The personal is political」。これは現在放送中のTBS「御上先生」の中の重要なコンセプトである。この切り口を通して、生徒の抱える問題の中に、社会の問題と関連した問題が内包しており、その内包している問題を掘り出すことによって、生徒の意識変革を行っていくことが描かれていた。一つは、教師の父を持つ生徒の自主学習教材の問題、そしてもう一つは生理用品を万引きした生徒の問題(ヤングケアラー)である。もともと、この「The personal is political」は、アメリカの1960年代の学生運動や第二派のフェミニズム運動で使われた言葉らしい。横文字で表すと何かとても新しい概念のように思われるが、このドラマを見ている中で、「?、日本にもよく似たことってあったのでは?」と思うようになった。
その一つが、戦前から戦後にかけて実践された「生活綴り方運動」である。生活綴り方運動とは、
「子どもたちの認識の発達をはかるとき、彼らが既往の具体的な生活体験のなかで感覚し、素ぼくに思考している個別的・具体的・特殊的なものを、あくまで見のがすことなく、それを書きことばまたは話しことばで学級集団のなかに提出させ、それを手がかりとしつつ、その集団の話し合いのなかで、より一般的・抽象的・普遍的な新しい認識を子どもたちのうちに着実に育てようとする方法であり、態度である。」
と定義されている。主に小学生や中学生を対象に実践された取り組みであるが、発想として「The personal is political」のコンセプトと近いものがあるように思う。
もう一つが、部落問題を学ぶにあたって実践された「解放教育」と称せられた運動である。この教育活動の中で、「生活の中に差別を見抜く」という事が行われた。自分の足元の生活を見据え、言葉にすることで、生活のしんどさ、親のしんどさ、将来のしんどさの中に部落差別という社会問題を自覚するという取り組みだ。これぞ、まさに「The personal is political」ではないかと思う。
工藤勇一氏が監修しているという事で注目を浴びているこのドラマだ。何か今までと違う教育ドラマと捉えられているが、決してそんなことは無い。日本の教育実践で取り組まれていたこともあるのだ。新しい言葉で語られると、何か新鮮なものを感じるが、実はそうではないという事もある。ただ、21世紀に入って、「生活綴り方」的なものが、広く実践されてきたわけではない。日本の経済が停滞し、様々な社会問題が噴出し、格差が拡大する中で、もう一度、子どもの足元に社会問題を見つめなおすという取り組みには大きな意義がある。学校にスクールソーシャルワーカーを求める声が高いのも、「The personal is political」という視点の重要性が増しているからだろう。
次回、この「御上先生」も最終回である。とうとう「裏口入学問題」に決着が着くのだろう。今まで、敵と思われていた槙野も、実は味方であったという「どんでん返し」的なこともあった。ただ、このドラマがサスペンスでなく、教育ドラマであるなら、この「The personal is political」の視点をどこまでも追及してほしかったと思う。このドラマのメインテーマである「裏口入学問題」は余計なのだ。
教育関係者以外は盛り上がっているが、教育関係者はこのドラマを冷めた目で見てしまうのは、このメインテーマが教育課題からドラマをそらさせているからだろう。
コメントを残す