NHK「学校の未来」

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 1月27日、NHKで「学校の未来」1部・2部が報道された。少しコメントしてみたい。不登校30万人である。なぜ、不登校が30万人にもなったか。これが第一のテーマである。
 短期的には、新型コロナウイルスの要因は、除去できない。この2年から3年で急激に学校に行くことができない子どもが増えているのだ。やはり、人とのコミュニケーションが十分にできない中で、人間関係をどのように結んでいけばよいのか、その基礎的な部分が欠如してしまったことは大きい。とはいえ、不登校は増え続けているのだ。その長期的な要因は、番組でもコメントされていたが、社会と学校との乖離にある。学校という社会システムが生まれたのは、産業革命と大きく関係している。簡単に言えば、工場で働く有能な労働者を育てるために、速く、正確に、ゴールにたどり着くことができる教育を行うシステムとして、学校が生まれたと言っても過言ではない。高度経済成長までは、この学校のシステムは、社会にマッチングしていた。ところが、ポスト近代とか、後期近代とか言われる時代、その時代は、言い換えれば価値観の多様化であり、もっと鋭く言えば、VUCAの時代なのだが、この後期近代に突入した時代に、画一的な教育を行う学校というものが、マッチングしなくなったのだ。そのことをいち早く敏感に感じ取ってしまった子どもが、不登校という形で学校に反旗を翻したともいえる。
 そうすれば、後期近代にどのような学校が求められるのか。これが第二のテーマである。それを打ち出したのが、「令和の学校」である。中身は、「個別最適化の学び」と「協働の学び」である。番組でも加賀市の教育長が、「学ぶことは変えないで、学び方を変える」と言っていたのは、的を得ている。子どもそれぞれのスタートラインも違い、能力も違う。そういう中で、一人一人の子どもに合った学びを進めていこうというものだ。一人で学びたい子もいれば、友達と学ぶ方が理解が進む子もいるし、先生に教えてもらった方が良い子もいる。「個別最適化の学び」は、学校の画一性に息苦しさを感じていた子どもにとっては、一筋の光であろう。
 ここで問題になってくるのが、第三のテーマだ。子ども一人一人が関心を持つ学びの対象も違うじゃないかという考え方だ。そうすると、山形県の天童市の小学校のように、授業の2割は、子どもたちが何を学ぶか考えて行う授業というものが生まれることになる。それでいいじゃないかと思うかもしれない。だが、番組では、小学生が化粧の仕方を友達と考えている場面が出てきた。「?」と思った。これはいいのか?ということだ。一人一人学ぶ関心も違うと言えば、これも良いことになるが、それでは義務教育はどうなるのだということになる。義務教育とは、やはり日本国民として最低限学ばなければならないことをコンテンツとして揃えているわけだから、化粧について義務教育のどこに位置づくのかという疑問が生まれてくるのだ。当然、義務教育の内容を体現しているのが学習指導要領なのだから、学習指導要領のなかに、小学生の化粧の仕方の学習は位置づかなければならない。どこに位置づくのだろうと思ってみていた。

 そして、第四のテーマである。個別最適化の学びと国民としての最低限の学び、この2つをどう有機的に整合性を持って結びつけるのか。これは、テーゼとアンチテーゼを止揚する弁証法の問題だ。学校の教師というのは、バランス感覚が悪いので、個別最適化だ!というと、ドンドンそちらの方向に行ってしまう。そうすると、国民としての最低限の学びというより、AI社会を生きるこれからの若者に必要な最低限の学びが疎かになるように思ってしまう。この点を俯瞰してみる目を教師に持ってほしいと思いながら、番組を見ていた。


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