「東近江市長発言」が看過できなくなってきた!

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 滋賀県東近江市の小椋市長による発言の波紋が波紋が波紋を広げている。彼の発言は、「(フリースクールへの公的支援が)国家の根幹を崩しかねない」「不登校は大半が親の責任」というものであった。25日には記者会見を開き、この二つの発言については、「保護者や運営団体などを傷つけた。深く反省して謝罪したい」と述べた。その一方で、「フリースクールが義務教育の枠組みを侵食する危惧がある」とこの点については、撤回を拒否した。(以上、読売新聞記事より抽出)
 マスコミの焦点は、発言を撤回するかしないかに当たっているようである。マスコミは、問題発言としてこの小椋市長にダメージを与えたいのだろう。しかし、小椋市長からすると確信をもっての発言なので、撤回を求めても「なぜする必要があるのか?!」と反論されるだけである。要は、教育論争をしなければならないわけであるが、マスコミも教育、特に不登校問題に知見を有している記者がいないのか、よくあるゴシップ的記事の取り扱いしかできていない。
 おそらく、元警察官という経歴の持ち主である小椋市長の頭の中には、「秩序」という二文字がどーんと座っているのだろう。「子どもは学校で勉強すべきである、フリースクールなどのようなものを作れば少しいやなことがあっただけで学校に行かなくなるではないか、そんなものになぜ自治体は支援しなければならないのか」と考えているのだろう。これに対して、しっかりと教育論を提示していかなければ、議論にならない。例えば、
1)不登校はなぜ発生するのか?そしてなぜ増加傾向にあるのか?
2)不登校の責任は親にあるのか、それとも学校(教師)にあるのか、それともそもそも日本の学校制度に問題はないのか?
3)フリースクールは、不登校問題に有効なのか?有効というならば、学校教育とフリースクールの関係をどのように整理するのか?
4)フリースクールに意味がないというのなら、市長はどのように不登校に対処するのか。そもそも市長は不登校問題をどのように解決すべきと考えているのか?
5)世界の不登校問題の現状はどうなっているのか、そしてどのように対処しようとしているのか。
というような論点が浮かび上がる。これらの論点をしっかり整理したうえで、この市長と議論しなければ議論に意味はない。
 さらに議論を深めれば、国家観にまで行き着きそうな気がする。この市長の頭には国家・国民というのは、おそらく秩序という文字の下、一色で描かれているのだろう。しかし、世界は多様である。この多様性を認められるかどうかで、平和が訪れたり、紛争になったりしているのが世界なのだ。

まあ、次回の市長選挙で、この市長が当選するかどうか、東近江市民が審判を下すことになるだろうが、市長選挙では是非とも「フリースクールは不要!」と選挙公約に盛り込んで闘ってほしいと思う。


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