国語世論調査-「大人」の権威の失墜か?

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 相変わらず「若者言葉」が幅を利かせているようだ。「推し」「盛る」など、若者が使う言葉を「気にならない」と答えた人は8割に上るらしい。この現象は、今に始まったことではないが、SNSなどの普及で加速度的に進んでいるというのが、世の中の見方だが、果たしてSNSだけが原因だろうか?

 昔、司馬遼太郎氏がどこかで書いていた。確か浄土真宗の蓮如に心酔する弟子が、話し方から所作まで師匠である蓮如そっくりになるという話であったと思う。間違っていたらすみません、うろ覚えなので。司馬さんが言いたいのは、大人の権威が失われつつあるのではないか、昔は大人が権威を持って周囲の信頼を集めていたので、それを模倣することが知らず知らずのうちに行われていた。ところが、どうも最近は違うようだというようなことだったと思う。

 確かにその通りだ。この流れの背景には、次の二つのことがあるように思う。一つは凄まじいスピードで進む技術革新の波である。昔、それも産業革命以前の事だろうが、技術革新は師匠の一子相伝的に行われてきた。それ故に、技術革新は、職人の一生をかけて行われるぐらいのスピードであった。だから、弟子は一生をかけて師匠の技術を獲得しようとする。当然、師匠への人間的信頼も増すと思われる。ところが、産業革命以降、技術革新は凄まじいスピードで行われている。特に、IT技術が生活の隅々まで浸透し始めてから、1年ないしは半年サイクルで新製品や新技術が登場するようになってくると、この技術革新についていくことに必死になる。この技術革新の対象は、多くは若者を対象としており、そして若者こそその技術革新に対応していく。自然と「大人」は、若者に教えを乞うことになる。これでは、大人へのリスペクトは中々生まれてこないだろう。そうすれば、自然と若者の世界が「大人の世界」を侵食し、「大人」は若者に近づこうとするのではないか。「若者言葉」の浸透は、その象徴だ。1年ほど前、父親に服をプレゼントするために、ユニクロに出かけた。いざ、お金を払おうとレジに行くと、今やユニクロは自動計算になっている。親父曰く「こんなことになっているなら、俺らは買い物できへんな・・・。えらい世の中になってしもた・・・」と独り呟いた。この現象が、大人へのリスペクトを失わせている一つではないかと思う。

 もう一つの要因。それは、大人でさえも新聞も本も読まなくなって、ひたすらスマホの画面を眺めていることである。もう、詳しく言わなくてもよいと思うが、SNSで多用されているのは、短文でも意味が通じるような感情的な言葉の使い方である。誤用も散見する。その誤用がSNSに乗って拡散し、正しい使い方を駆逐する。今回の調査で「涼しい顔をする」の正しい使い方を知っていたのは、わずか22.9%だった。61%が「大変な状況でも平気そうにする」と誤解していたのである。正しくは、「関係があるのに知らんぷりをする」ことなのに。まるで「悪貨は良貨を駆逐する」状況である。

 言葉は、歴史的には様々に変遷してきた。それは事実だろう。しかし、日本語という文化を正しく継承することも必要だ。こういうと、「学校教育ががんばれ!」と短絡的に結びついてしまう。読売新聞の社説も最後には、「家庭や学校で活字に触れ、じっくりと言葉に向き合う機会を増やしてほしい。」と書いている。一応「家庭」ということも付け足しているが、論説員の頭の中にあるのは学校だろう。もっと新聞を読めとか、せめてニュースを見ろとか言えないものかと思う。


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