こんなこと言っているから日教組の組織率が低下するのだ。日本教職員組合(日教組)の第75次教育研究全国集会(教研集会)の全体集会が16日、オンラインで行われた。梶原貴中央執行委員長は「高市首相は、存立危機事態発言や、非核三原則の見直しなどに言及している。日教組は武力で平和は作れないことを粘り強く訴え、平和教育を推進する」と述べたというのだ。
日教組は、平和教育をすぐに政治闘争に結びつけたがる。日教組は、教職員を組織する団体であって、政党ではない。どのような信条やイデオロギーを持っていたとしても、教職員の労働環境を改善するという点で一致していれば、幅広く参加できる組織であるはずだ。ところが、このような政治課題に結びつけた組合活動をしたがるから、政治信条に合わなかったり、嫌気がさして脱退する教職員が後を絶たないのだ。この組織的体質は、犯罪的でさえある。
例えば、平和教育である。戦争で人が亡くなることを望むような人間は、余程の事が無い限り存在しない。過去の2回の世界大戦で、戦争が悲惨な結果しかもたらさないことは、誰しもが知っている。しかし、戦後80年の間にも数々の戦争や紛争が発生した。それが現実の国際政治である。戦争や紛争が「力の不均衡」が生じたときに発生するというのが常識だ。ウクライナ戦争を見れば明らかである。核の抑止も含め、力の均衡を保ちながら、核削減を如何に進めるのか、それが平和への道である。1970年代から1980年代にかけて、米ソ両国の中で核軍縮の機運が盛り上がったときもあった。レーガン大統領とゴルバチョフ大統領の間で核軍縮の合意もなされたのだ。こういう具体的な国際政治を知ることが平和教育においても重要である。そう考えると、核の均衡を唱えることも平和への道の一つではないかと思うのだ。ところが、今回の日教組委員長の挨拶では、そのような道筋は排除されてしまう。そこに反自民という政治性を帯びていることが見えてくれるのだ。ここに日教組という組織の狭さが存在する。
もう誰もが知っているように、学校は「ブラック」である。その結果、教員不足が続いている。教員不足という事は、児童・生徒に十分な教育を供給することができていないという事なのだ。今ほど、教職員の処遇改善を通じた教員の確保が必要な時はない。政府‐文科省が、率先して教職員の処遇改善を行ってくれるべくもなく、教員不足を議論する中教審には教職員代表の委員も参加できていない状況なのだ。本来なら、教職員の代表という日教組が中教審に参加し、働く教職員の代表者として意見を述べなければならない。その役割を果たせていない日教組とは一体何者なのか。
何でもかんでも政治闘争に結びつけたがる日教組の体質を変えない限り、日教組の未来はない。というか、もう未来はない状態なのかもしれない。

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