10月13日に、「そりゃヒーローは生まれないわ…日本の『運動会』の欠点、イギリスの『スポーツデイ』と比べて発見」をfacebookでシェアした。この記事は、日本とイギリスの運動会(イギリスは、「スポーツデイ」という)の違いを鮮明に示してくれている。私の家の前には小学校があり、この時期には運動会の練習が盛んである。
そこで思うところがあるのだが、小学校で行われる各学年の集団演技についてである。成長段階に応じた演技が計画されているわけである。日本では長年行われてきた運動会での演目であるので、何の疑問もなく受け入れてきた。しかし、この記事を読むと、「運動会」と「スポーツデイ」のコンセプトの違いがあまりにも大きいと思わざるを得ない。その違いは、記事を読んでもらえれば良いのだが、この日本の集団演技の根幹には、集団主義的教育というのが根本にあることを改めて認識した。イギリスの「スポーツデイ」は、あくまでもスポーツに関する個人競技を基本にしている。個人主義的な教育理念に基づいているのだ。
この集団演技、見ようによっては社会主義国というか、今では専制主義国家である中国や北朝鮮のセレモニーで行われる集団演技に通じるものがあると感じてしまうのは、偏見だろうか。個を殺し、集団の中のコマとして動きに徹する。見ようによっては、マスゲームとしては美しい。しかし、このご時世、小学校で集団演技を追求することには、少し違和感を覚える人が多くなっているのではないだろうか。
学校には、様々な児童が通っている。発達障がいがある子どもも多いのだ。自閉症の子どもや、ADHDの子どもにとって、集団に合わせるという事は中々難しい。それでも、個の在り方に制限を加えて、集団に合わせなさいというのが、この運動会での集団演技である。果たしてどんな子どもを育てようとしているのかと思う。
一時期、徒競走で最後は全員で手をつないでゴールするという事が小学校で行われた。悪しき平等主義の極致のようなやり方である。今では、そんなことは行われていないだろうと思うが、この集団主義と平等主義というのが、小学校の運動会に反映されているのが、日本の現状なのである。
因みに、中学校でも高校でも集団演技というのは、ほぼ行われない。競技が中心である。学校によっては、マスゲームが行われるようなことはあるが、メインではない。中高生ともなると、このマスゲームにも主体的に参加しており、個に制限を加えるというよりも、集団に個を従わせることに1人1人が意味を見出していると言えるだろう。集団としてどのような演舞になっているのかが、一人一人の頭の中にあるのだ。
私が附属中学校で国際バカロレア(IB)をめざそうとしたとき、体育祭の競技種目もIBの「10の学習者像」に沿って教員と生徒が一緒に検討を行った。私は一切この作業に関わらなかったが、当日競技を観ていて、個々の体力差・能力差に配慮した競技もあれば、全力で体育能力を発揮する競技もあった。生徒たちが、長い時間をかけて考えた末の競技種目であるというのが十分に判った。
小学校の運動会も「どんな子どもを育てるのか?」という観点から検討を加える時期に来ているのだろう。
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