前回のブログに引き続き、文芸春秋7月号の記事である。7月号の特集は、「100年の恋の物語」である。その中に、森鴎外の作品「舞姫」のことが書かれていた。六草いちかさんの寄稿である。以前からこの「舞姫」は鴎外の自伝的小説であるということは知っていたが、それならこの作品に登場する豊太郎の恋人、エリスは誰かとなる。まあ、とことん追い詰めて「エリスのモデルはだれか?」とまでは思っていなかったが、興味はあった。それがこの記事「森鴎外 引き裂かれた『舞姫』」で分かった。エリーゼ・ヴィーゲルトという女性だ。
鴎外が帰国後、彼女は日本に来ている。どうも旅費は鴎外が出したらしいことを考えると、結婚を前提にエリーゼは来日したらしい。ところが、両親からも親戚からも猛反対に遭い、エリーゼは日本を離れる。それも二人は結婚を諦めたわけではなく、である。しかし、鴎外とエリーゼはその後再開することなく、別の相手と結婚することになる。ただ、ここから興味を惹かれた。二人の間には文通が続いたらしい。鴎外は、エリーゼを忘れなかったのだ。森鴎外って、どんな人だったのだろう。写真から見ると、そして陸軍軍医という仕事に従事していることから考えて、こんなロマンチックな恋をした人と結びつかなかった。
長年、管理職として国語の授業を見学して興味深く見せてもらうのが、高校2年生で習う夏目漱石の「こころ」と森鴎外の「舞姫」である。いずれも明治の大文豪の作品であるし、近代的自我の確立とその「揺れ」というテーマを恋愛を素材に表現している。この二つの小説は、教える教師によって、全然違う授業になる。20代の教師とベテラン教師では、全然違う。深みが違うのである。「こころ」は、単に三角関係でないし、「舞姫」は、仕事と恋愛の選択ではない。このことをどれだけ伝えられるかが勝負である。
政治学者である姜尚中さんが、「こころ」について面白いことを述べている。この時期書生の自殺が増え、世間の話題になったのである。江戸から明治になり、司馬さんが言うような「青空の向こうに見える白い雲」の明るい明治だけではなかったのだ。突然輸入された西洋の近代的自我という概念を消化しきれない日本人の苦悩が現れたのが、この時期である。西洋が近代的自我を確立するには、資本主義の発展がベースにある。カネの下では、誰しもが平等であるという考えは、長い年月をかけて熟成されてきたのだと思う。この未消化は、未だに続いているように思われる。日本人特有の「同調圧力」の強さである。「マスクをするかしないかぐらい、そしていつしていつしないかぐらい、自分で考えろ!」と思う。
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