進化論の否定


 時々、キリスト教の教会に行って、聖書の話を聞いている。私が通っているのは、河内長野市にある南花台キリスト教会である。プロテスタント系の教会で、聖書についての話を聞くことができる日曜学校だ。最初に、私の立場を述べておく。私は、基本的に無神論者で神の存在を肯定していない。そんな私であるにも関わらず、教会に行って聖書の話を聞くのは、聖書の話の中に、人間としての本質が含まれるのではないかと考えているからだ。神は全知全能であるとされる。が、神の有する本質は、本来人間が有するべき本質であるが、それが人間から切り離され神として崇めなければならないところに、ヘーゲルの言う疎外論がある。そういうヘーゲルの疎外論をベースに、聖書がどのように語られているかを学ぶために教会に足を運んでいるのだ。

 ある時、進化論の講話があった。驚いたことに、というか当たり前のことかもしれないが、教会に通っているキリスト教の信者は、この世は神が創造したと真剣に信じているのだ。進化論を真っ向から否定している。さすがに、これには何とも言えない馬鹿らしさを覚えざるを得なかった。「この人たち、科学を信じていないのか?」と思った。確かに、宇宙の始まりや生命の誕生には謎が多い。今では、地球に生命が誕生したのは火山活動の中での化学変化によって誕生したことが知られている。しかし、まだまだ謎が多い。キリスト教信者は、その謎を「神の偉業」と片付けてしまうのだ。そんな考えでは、科学は進歩しない。「はじめに神は天と地とを創造された」で始まる旧約聖書の創世記を本当に信じているという事に、改めて驚きを感じた。

 私は、人類の歴史は、科学の発展と民主主義の深化にあると思っている。この二つの歴史により「神の住処」は、どんどん狭まっているのではないかと考えているのだが、どうも、アメリカはトランプ大統領の再登場により、益々宗教国家の色彩を強めているようだ。このことについては、また別のところで論じたい。


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