止まらない不登校・いじめの増加


 11月1日の読売新聞のトップに不登校・いじめの問題が掲載されていた。おそらく、各紙にも取り上げられているだろう。不登校・いじめの増加が止まらないというのだ。不登校の理由で一番多いのが「学校生活にやる気が出ない」(32.2%)らしい。コロナ禍の影響で、学校・集団生活から離れたことが大きな原因になっていると指摘している。また、「教育機会確保法」の施行により「無理をしてまで学校に行く必要はない」という理解(?)が浸透したこともあるとしている。記事を読んでいると、なるほどな…と思わせる。しかし、何かおかしい。

 人間は、集団で生きていく動物である。そうである限り、個々の個体としての人間の欲求を追求しようとすると、人間vs人間の闘争が起こる。これがホッブズの「万人の万人に対する闘争」という状況であり、ルソーの「自然状態」と言われる状況である。よって、この状況を解決するために、自分の持つ権利を一部譲渡することで、権力を形成し、社会契約を行うのが社会契約説だ。政治権力を形成すると同時に、生まれたばかりの自然状態である人間は、集団生活を通じて、社会性を身につけさせていくことを行わなければならない。その究極の形が「学校」というシステムだ。ところが、コロナ禍で急増したとは言え、不登校やいじめはずっと増加傾向なのだ。ということは、社会性を身につけさせるための社会的機能である「学校」というものに耐えうる程度の準備段階が不十分であるのではないかと思ってしまう。つまり、その準備段階の不十分性が、コロナ禍でより鮮明に浮かび上がったのではないか。

 準備段階の不十分性とは何か。それは二つ。究極的には一つ。少子化である。子どもが一人または二人しかいない家庭がほとんどである。これでは、親子の関係はあっても、子ども同士の関係は成立しない。やはり子どもが3人以上いないとなかなか、家庭の中で子どもの集団が形成しにくい。一人っ子だと当然親子関係しかないし、二人の兄弟姉妹でも、対立や葛藤が起これば、第三者として親が介入してくる。やはり、子どもの集団が形成されるのは、家庭内で3人以上の子どもが必要になる。たとえ、家庭に3人以上の子どもがいなくても、地域に子どもの集団があれば、そこで社会性が養われる。ところが、少子化の影響で地域の子どもの集団が成り立たなくなっているのだ。つまり、家庭でも地域でも子どもの社会性を養う機能が十分に機能していない中で、学校に放り込まれるのだ。当然、子どものストレスは大きい。「学校生活にやる気が出ない」ということになるのだろう。そして、不登校の増加が止まらないために、不登校が社会で認知された結果が「教育機会確保法」まで到達したのである。
 これだけ、不登校問題がクローズアップされ、社会の中で認知が進んでいけば、益々子どもに社会性を身につけさせていくためのハードルを下げたシステムが広がっていくだろう。どこかの市長が「フリースクールは学校の崩壊につながる」と発言して物議を醸したのも、あながち的外れではない。誤解が無いように言っておくが、私はこの市長の発言を支持するつもりはない。現状が、ここまで進んでしまえば、「子どもの居り場」を地域や学校の中で設けることは、とても重要だからだ。
 いじめの問題も根は一緒である。子どもの社会性の欠如である。ルソーの言う「自然状態」であるが故に、子どもの中にいじめという闘争が起こるのだ。不登校問題にしろ、いじめの問題にしろ、解決に向けた方向性は今のままで良いのだろう。足りないのは、過剰労働を課せられている教員の労働環境を改善し、より一人一人の児童・生徒に寄り添える環境を整備すること、教員以外のカウンセラーなどの配置を充実させることだろう。
 
 私が言いたいのは、この不登校・いじめ問題を少子化による子ども集団の崩壊と関連付けて論じることが重要ではないかということだ。そうすれば、もっと地域に子どもの集団を育成する取り組みも行われるのではないか。前に一度河内長野のだんじり祭りについてコメントした。特定の質を持った集団(ヤンキーとギャル)しか祭りに参加していないのだ。昔は、地域の多くの子どもが祭りに参加した。ところが、多くの子どもが参加している地域のだんじり祭りもあった。地元の地域と新興住宅街が混ざっている加賀田地区である。子ども会がだんじりを曳航しているのである。これが、本来の祭りの姿であり、地域社会での子どものつながりではないかと思う。

加賀田のだんじり祭り


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