「光る君へ」を勉強中


 現在放映中の大河ドラマ「光る君へ」を見ているが、疑問も多い。平安時代の大河ドラマと言えば、蝦夷を扱った「炎立つ」、平将門を扱った「風と雲と虹と」、そして平安末期の源平合戦である。今回は、摂関政治の頂点を極めた藤原道長とそのサポートを受けた紫式部の話だ。とにかく、紫式部は名前もわからない人なので謎も多く、道長との恋愛関係など、ドラマでは書きたい放題という感じがする。そこで、史実はどうなのかということを知りたくなった。今、2冊の本を読んでいる最中だ。
「藤原道長の権力と欲望」(倉本一宏著)
「謎の平安前期ー桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年」(榎村寛之著)
である。今は、「謎の平安前期」の2/3ほど読んだ。著者の榎村氏によると、奈良時代の方が、ダイナミックで平安前期はそのダイナミックさが失われている過程であるという。具体的には、
★飛鳥時代からの豪族は、奈良時代までは政権中枢を担っていたが、平安前期では藤原氏により排除されていく→これは教科書にも載っている既知の話。
★学者官僚も奈良時代には、相当活躍していた。歴代の天皇も信頼を寄せていたが、平安前期には学者官僚は排除されていった。その象徴が菅原道真である。著者は、この「学者官僚排除」の方が「豪族排除」より影響が大きいという。面白いのは、その後、学で身を立てようとした貴族は、政権中枢には一切関わるができなかった。これは、まひろ(紫式部)の父である藤原為朝を見ればよくわかる。彼は、藤原でも傍流の傍流でしかない。
★奈良時代に比べて、平安時代は女性官僚の地位が低い。その根拠に、著者は女性官僚の名前を挙げている。奈良時代は、一人一人の女性官僚の名前が明らかになっているが、平安時代は女流文学が盛んになったにも関わらず、女御と言われる人たちは、紫式部や清少納言でも名前はわからない。
★桓武天皇や宇田・嵯峨・村上天皇などは、自分の子を降家させ、平氏や源氏を創設した。平氏には政権中枢を担うような人材は生まれてこず、地方に土着したが、源氏には天皇を支える有望な人材が多数あり、藤原氏とのし烈な権力闘争を行った。これは、天皇の親政を行う上で重要なことだったが、源高明が排斥されたことで、天皇が自分の子を降家させ、自らを支える政治集団を育成することも絶えた。因みに、高明の子どもが道長の第二夫人の明子である。
以上のようなことが、平安前期に起こり、奈良時代のダイナミックスさがどんどん失われていき、摂関政治に行き着いたというのである。著者は平安時代は400年続いたが、前期の200年と後期の200年では、まるで違う様相を呈しているという。言われてみれば、その通りだ。

大河ドラマも「摂関政治への道」などをテーマに桓武天皇の都の遷都から平安前期を描いたら面白いと思った。事件や変には事欠かない。


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