6月12日のNHK「映像の世紀ーバタフライエフェクト」は、ビートルズだった。彼らの誕生から結成そして世界的な人気ロックバンドに成長するまでのドキュメンタリーであった。2週連続で放映されるので、次回のバンド解散までの放映も楽しみにしている。
今回の放映で感じたこと。それは、ビートルズと社会との軋轢である。イギリスのリバプールで、労働者階級の出身として生まれたポールとレノンが出会い、ビートルズの結成へと繋がった。彼らが10代から20代を過ごした1960年代は、どういう時代だったのか、このビートルズ現象で理解できる。彼ら、ビートルズの面々は、ひたすら自分たちが表現したい音楽を追求していった。自分たちの感じるところをどのような言葉でどのような曲にのせて歌えばよいのか、そのことにどん欲な若者だったのだろう。今の私たちはその後の彼らの歩みを知っているので、彼らの栄光も悩みも挫折も知っている。未来の視点で過去を見ているので、ビートルズの栄光に目が行きがちだ。しかし、この「映像の世紀」は、まさに映像を交えてその時点での視点でとらえることを主眼としているので、当時の若者や社会が、そして世界がどのようにビートルズをとらえていたかが、よくわかる。
例えば、今まで何回も見た日本における武道館初公演。「日本の伝統的な武道を行う武道館で、ロックバンドのコンサートは不謹慎」と日本の右翼が、あれほどコンサートの中止を訴え、警察と衝突した映像は初めて見た。また、その警護のために全国から8000人の警官が動員されたのも初めて知った。G7並みの警護である。また、レノンの「僕たちはキリストより有名」というちょっとした発言により、アメリカで猛烈な不買運動や反ビートルズの抗議が巻き起こったのも初めて知った。メンバーは、どんどん窮地に追いやられ、1966年8月でコンサートの中止に追い込まれた。
この60年代とは、いったい何だったのだろう、と映像を見ながら考えさせられた。彼らは、ひたすら良い音楽を追求し、自分たちを音楽を通じて表現してきた。そこに、人種も階級も差別も関係ない。この彼らの感覚(当然現在にも通じる感覚)が、戦前から続く伝統的な価値観と真っ向から対立した時代なのだろう。そして、その伝統的価値観に風穴を開ける役割を、ビートルズが担ったということを、当時の彼らはどこまで自覚していただろう。ポールが言ったように「俺たちは、60年代の一部でしかない。だけど、60年代の若者にとってビートルズが全てになってしまった」という言葉は、とてつもなく的を得ている。
私は、1960年生まれ、ビートルズが現役で活動している時代は知らない。あの熱狂をリアルタイムで体感した記憶はない。1960年代の反戦運動、大学紛争、混乱と動乱と熱狂の時代の60年代を私は知らない。私が過ごした10代は、その熱狂が過ぎ去った70年代だ。高校時代に言われたのは、「三無主義の若者」という言葉である。無気力・無関心・無責任の時代である。シラケ世代と呼ばれた。自分たちが「シラケている」という自覚はなく、普通に青春時代を過ごしたと思っていたが、どうも世間はそのように呼んだ。こんなシラケ世代にも転機が訪れるようだ。高校3年生の時、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」が流行った。私の仲間たちは、この小説を読んで今までの「生き方」を問い詰めれられた。それぞれが自分の生きる方向を模索し始めた。アフリカに行くと言い出した奴、起業家になると言い出した奴、映画監督をめざした奴、それなりに悩み苦しみ、互いに切磋琢磨していた時代である。もし、60年代を10代の若者として過ごしていたら、ビートルズをリアルタイムで体感できていたら、どんな青春を過ごしたのだろうと夢想する。
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