藤原道長について、調べている。前にもブログで書いたが、「光る君へ」で描かれている道長像と、日本史で学んだ「この世をば・・・」の道長像にどうもギャップがあるのだ。実際に道長がどんな政治を行ったか。いろいろ読んでみた。
★謎の平安前期
★藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代
★荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで
である。「謎の平安期」と「権力と欲望」については、前にコメントした。「荘園」は、実証的研究の成果で、荘園の歴史を追ったもので、知らなかったことも多々あったが、道長がどんな政治を行かったかという点に、直接の言及はなかった。そこで、道長がどんな政治を行ったかということをさらに知るために
★藤原道長 摂関期の政治と文化(日本史リブレット)
を読んでみた。作者は、道長の日記「御堂関白記」の注釈に関わった大津透氏である。氏も冒頭で述べているように、今までの道長のイメージとは、
「一条天皇の後宮争いに勝利し、中関白家の藤原伊周を政変により失脚させる、長女の彰子の生んだ孫の敦成親王の即位をめざし、三条天皇に嫌がらせを繰り返し退位を迫る、政変や陰謀によって権力を掌握した」(p1)
というものである。
この本を読んでみると、どうも大河ドラマの「道長像」は、意外に実像に近いのではないかと思えてきた。大津氏は、道長の政治を「公卿連合の上に立ち、太政官を領導した」と捉えている。私もこの本を読んで、そして大河ドラマを見ていて、初めて気づいたのだが、道長が摂政及び関白になったのは、幼帝の後一条天皇即位の時の一年ほどである。一条天皇、三条天皇の時には、関白即位を道長は固辞しているのだ。道長は、左大臣・内覧として、太政官を統括し、今の内閣総理大臣のような役割をしていたと考える方がイメージが湧く。伊周が関白をめざし、独裁的な振る舞いをめざしたこととは、対照的だ。
また、太政官の会議でも、位の低い参議から順に意見を述べるしきたりで、意見が分かれれば、最上位の者(この時は道長)が裁断する場合もあれば、意見が分かれたまま天皇に奏上することもあるらしい。民主的ともいえるが、いかにも「和を尊ぶ」日本的でもある。
さらに、四納言と言われる藤原行成、藤原公任、藤原斉信、源俊賢ともよく相談を行い、意見を求めているのだ。そのことが、各公卿の日記から伺い知れるという。藤原三氏は、若いころからの同窓生のような感じだが、源俊賢は、第二妻の明子の兄で、ドラマでは最初は凡才のように得かがれていたが、意外にも切れ者として道長に仕えそうだ。この四納言の活躍も今後の見どころではないだろうか。
最後に道長の有名な歌、「この世をば・・・」であるが、この歌が世に出たのは、藤原実資が小右記に記載したからである。道長が詠み、公卿らがみなで謳ったという。ところが、道長の日記である「御堂関白記」には、謳った事実は記載されているが、歌は載っていない。だから、実資が「この世をば・・・」と書いているが、実は「この夜をば・・・」かもしれないのだ。そうすると、道長の詠んだ歌の意味がまるで違ってくる。権力のトップを掌握したイメージの象徴としてのこの歌であるが、実は、実資の「予断と偏見」が入っているかもしれない。今回の大河ドラマの中でも象徴的な場面になると思われるので、これをどう扱うか、注目すべき点である。
最後にと言いながら、おまけです。「刀伊の入寇」はご存じだろうか。女真族が壱岐から北九州に侵入し、略奪・殺人を繰り広げた事件で、これを成敗したのが、伊周の弟の隆家である。ドラマでは、竜星涼が演じている。花山院に矢を射るやんちゃであるが、今後、「刀伊の入寇」が描かれるのかどうかも話題の一つだ。描かれれば、「光る君へ」の中の唯一の合戦シーンとなる。「刀伊の入寇」は、平安時代最大の外交的危機と言われており、日本史でも大きく取り上げられていないことが不思議だ。東アジアの歴史を俯瞰的にみるとその本質も見えてくるだろう。歴史総合で学ぶのに格好の材料ではないかと思ってしまった。今度は、「刀伊の入寇」に関する本を読んでみようと思う。
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