歴史探偵ー「消えた原爆ニュース」

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 8月9日放映の歴史探偵のテーマは、「消えた原爆ニュース」だった。GHQ時代の報道規制、そしてその後の自主規制の話が前半にあった。現在の感覚から言えば、所長である佐藤二朗氏がコメントした通り、「憤りさえ覚える」非常に腹立たしい事態である。しかしながら、戦争に敗退し、占領されるというのはこういうことなのだろう、と思って観ていた。アメリカが原爆被害をひた隠しにしたかったのは、今後の核使用を想定し、世界からの批判を免れたかったという意図があるという見方は、十分に納得感がある。3回目の核使用をアメリカが想定していたとすれば、それはどこの国のどの地だったのだろうと思ってしまう。もしかしたら、朝鮮戦争時に核爆弾が使用されていたかもしれないと想像すると、歴史が大きく変わったかもしれない。
 後半は、そうすれば、なぜ原爆の実態が世の中に知られるようになったのかという問いである。この問いに対する答えは、私も知らなかった。京都大学の原爆展が1951年に開催されたのである。原爆投下から6年が経っていた。当時、新型爆弾が広島に落ちたと言われていたが、その被害は語られず、語られたとしても、被害は収まったと報道されていた。しかし、原爆の被害を調べ、特別講義を行った天野重安助教授の話を聞いた学生たちは、「知った限りは、未来に伝えなければならない」と原爆展を企画する。この企画には、3万人の来場者があったというので、大盛況であったのだろう。
 放映では、この原爆展開催の苦労も報道していた。大学側の協力が得られず、実際に広島に赴き、聞き取り調査や資料を収集する必要があった。案の定、被爆者たちの口は重い。苦しかったこと、痛ましいことを話したくはないという思いがコメントされていたが、私はそれ以上に、「この実態が世間に伝わったら、私たち被爆者への差別がさらに拡大し、ひどくなるのではないか」という悲痛なる思いがあったと想像する。実際、被爆者との結婚や就職について、あからさまな差別があったと小さいころに聞いた記憶がある。1970年ごろの話である。
 そんなことを考えて、この原爆展を考えた。確かに、原爆の実相を世間に伝えることは、非常に重要なことである。GHQの報道規制、自主規制が敷かれる中で、6年間もその実態を知らされていない状況の下での、原爆展の意義はとてつもなく大きい。問題は、この原爆展によって、被爆者への偏見や差別がどうなったのかということである。これは、被爆者への人生や生存にまで影響が及ぶ問題である。この点について、どうだったのか、できればどこかで特別番組をお願いしたい。

 教育に関わる者としては、生き様に学ぶことが重要であると、私は常に考えている。


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