奈良教育大学附属小問題については、本当にいろいろな意見が噴出している。今日は、学習指導要領逸脱の背景にある「職員会議が最高議決機関」という問題を取り上げたい。「職員会議が最高議決機関」というのは、校長も職員会議の決定に拘束されるということを意味している。私が、教員になった40年ほど前の職員会議の風景は、審議事項については、議長が多数決をもとめ、教職員が挙手することで決することが普通であった。ある高校で、朝日新聞の記者が長期取材のために、職員会議にも同席した時、こんな感想を述べたことを覚えている。
記者:「本当に挙手するのですね。びっくりしました。社会人になってこんなことをやったことないです」
私: 「朝日新聞でもそんなことはやらないの」
記者:「やらないですよ。上司からの一言で終わりですよ」
リベラルを自認する朝日新聞でもこんな組織風土はないんだと、こちらも改めて民間組織と学校の違いを確認した。ピラミッド組織と鍋蓋組織の違いなのだろう。
しかし、この問題も法律的には決着が着いている。平成12年に学校教育法施行規則が改正されたことは、周知の事実である。
第四十八条 小学校には、設置者の定めるところにより、校長の職務の円滑な執行に資するため、職員会議を置くことができる。
2 職員会議は、校長が主宰する。
このことを受けて、各教育委員会は、職員会議の位置づけを補助期間として明確にしたのだ。もう、20年以上前の話だ。それにもかかわらずいまだ「職員会議が最高議決機関」と言い、それが如何にも民主的な学校運営であるように主張する奈良教育大の附属小の教員は、時代遅れと言える。
そうは言っても、未だに「奈良教育大附属小の運営が民主的なのに、それを壊す校長・学長」という対立的な構図で主張する学校関係者もいる。果たして、「職員会議が最高議決機関」が民主的なのか?確かに挙手をすることで、教員の意思表示ができる。しかし、その決定についてだれが責任を取るというのか。校長の意に反することを決めておいて、そのことの責任だけを校長に押し付けるのは、果たして民主的な組織と言えるのかと思う。どちらかと言えば、衆愚政治だろう。塩野七生さんの「ギリシャ人の物語」の中にもアテネの直線民主主義が、衆愚政治と紙一重であることが、その歴史を通じて明白に描かれている。危機だけをあおるアジテーターの出現により、戦争に踏み切ることを投票で決めたアテネが、その存在さえも危機に陥ることもあるのだ。大事なことは、次の2点である。
①進むべき道を指し示すミッションとビジョンを明らかにし、その実現のためのストラテジーを立て、そして実行するリーダー
②構成員の理解と納得を得るための議論の保障(熟議と言っても良い)
この両方共が、校長の仕事である。職員会議の位置づけが校長の補助機関として位置づけられた直後には、校長の独断的決定が横行することがあった。当然、教員にも反感も反発もあったと思うが、法的に位置づけられているので如何ともしがたい。しかし、そんなことを繰り返していれば、校長への信頼は崩れ、組織は停滞していく。職員会議が、補助機関と位置付けられたからこそ、②の議論をしっかりと行わなければ、組織は活性化しない。
私は、民間校長の後に校長として赴任した経験が2回ある。1回目は、①が強調され②がないがしろにされていた。そうすると、私が赴任した時には、職員会議で教員が一切発言しない状況だった。私は、教員と共に学校経営を行うつもりだったが、教員に積極的に学校経営に関わってもらうのに、大変苦労した。2回目は、①も②もなかった。そうすると、学校の方向性もあやふや、教員間の議論も徹底されていないので、教員間の意思疎通が本当に悪かった。
「職員会議が最高議決機関」と思うのなら、一度校長として学校経営の最高責任者を経験してみてはどうか。そうすると、自分の言っていることがどういうことを意味するのか分かるだろう。
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