宿題廃止は、良いことか?

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 7月20日は、全国的に1学期の終業式が行われ、夏休みが始まる。昨日、NHKニュースを見ていると、東京都新宿区の西新宿小学校で「夏休みの宿題廃止」の報道が流れていた。詳しくは、最後の記事内容をクリックしてほしい。

 さて、その意図するところである。学校は「子どもの主体性を養う」という目的のために、一律の宿題を廃止したという。子ども受け止めはどうだろう。報道では、

男子児童は「塾に通っているので宿題があると午後10時以降に取り組まなければならず、睡眠時間を奪われていました。宿題がなくなって最初は大丈夫かなと心配でしたがだんだん慣れてきました」と話していました。
また別の男子児童は「宿題がない分ほぼ自由なので、スマートフォンのゲームやSNSに使う時間がこれまでの倍になり、1日3時間ぐらい費やしてしまっています。ゲームの時間が自然に増えてしまうので、気をつけていきたい」と話していました。

という子どもの声が紹介されており、賛否両論報道のNHKらしい組み立てである。保護者も同様に賛否両論の報道だった。教員は、宿題のチェックなどが無くなるので、かなり時間外勤務が減少したという賛成の報道である。専門家として妹尾氏がインタビューに答えていたが、妹尾氏らしくなくあまり切れ味が無かった。
 さて、私の見解である。宿題を全くなくしてしまうと、家庭の教育力の差がダイレクトに子どもに影響を及ぼす。この状況は、学力格差をさらに拡大する危険性がはらんでいる。現在の日本では、学力の格差はそのまま貧富の格差につながる可能性が大きい。非正規雇用と正規雇用の格差である。一旦非正規雇用になると、なかなか正規雇用される機会も少ない。失敗しても再チャレンジできるだけの十分な環境が整っていないので、益々貧困が続く可能性がある。学力の格差≒貧富の格差につながっていく。かつ、親の学力格差も子に連鎖する。それを何とか断ち切るのは、学校という公教育の力であろう。宿題をなくすというのは、学校がもつ公教育の力の一部を割くということになりかねない。
 かといって、今までのように一律の宿題が必要かというとそうでもない。長男が中学3年生の時、夏休みという受験にとってとても大事な時期に、学校の宿題に時間を取られていた。レベルをみると、基本的な問題ばかりだった。「長男には必要ない」と心では思ったが口には出せない。これは良くないと思ったことを覚えている。欧米のような留年制度が機能していない日本では、義務教育段階の学力格差が相当ある。よって、求められるのは「個別最適化教育」なのである。しかし、個々の生徒に必要な教材を一つずつ教員が用意することは不可能だ。ところが、最近は教育業界にもAI技術が取り入れられ、様々な教育産業が、AIを搭載した個別最適化教材を提供している。前に勤務していた附属中学校も学力格差は相当あったので、QubenaというAI教材を導入した。このツールは、学力格差を解消していく強い味方になると考えた。まったく、宿題をなくすのではなく、個々の生徒の判断により、自分が何を必要としているのかをAIの力を借りながら学習するという方策が良いのではないかと思う。

 ここからは、余談として聞いてほしい。Qubenaを導入して思うことである。導入した者としては、「学力が低い生徒ほど、熱心に取り組むだろう、取り組んでほしい」と考えていたが、この希望は、夢想に変わってしまった。「学力が高い生徒ほど、熱心に取り組み、低い生徒ほど取り組みが不十分」という結果になった。先生方も色々と工夫して、授業の進度に合わせてQubenaを宿題に出したりしてくれた。私も1か月ごとの取り組み状況を学年の最高課題数をつけて、個々の生徒に返却することを続けた(今の継続されているかは知らないが・・・)。少しでも学力不足の生徒のためにならないかと思ったが、思ったほど成果を挙げなかったというのが現状だ。原因は何か?結果としての「学力の格差」と同時、「学習意欲の格差」が存在するのである。こうなると否が応でも勉強させる「外圧」(外発的誘引)が必要になる。高校では、その誘因は「原級留置(留年)」とか「単位習得」ということが作用するが、義務教育ではその制度がない。厳密に言うと、制度的にはあるが機能していないということである。ある一定の学力を有しないと進級できないとなれば、生徒も必死になってやるだろう。「学習意欲の格差」は、結果の学力格差以上に手強いというのが、私の実感である。

“宿題は原則なし”一体なぜ?取り組みを始めた学校のねらいは


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