ドイツで学校での清掃活動の是非について意見が2分されているらしい。ドイツのシュヴェービッシュ・グミュント市の市長が2025年10月、学校で生徒による掃除の時間を設けることを提案した。ドイツ公共放送「SWR」によると、この提案に対して反対する生徒会や保護者は、「子供を無給の清掃員扱いするのは権利侵害だ」と訴え、労働組合は、「清掃員の仕事が奪われる」と主張し、抗議デモまで行った。一方、市長は、「紙くずが魔法のように消えるわけではなく、清掃員の仕事は大切なのだという意識を生徒たちに持ってもらいたい」と、教育的側面を強調したという。
この論争は、学校という教育の場をどのように捉えるかという事がベースにある。前者は、「学校はあくまで学習の場であり、子供たちが学習に集中できる環境を作るのは大人の責任だ」という考えに基づいている。後者は、「学校は教科の学習だけでなく、社会性やコミュニティの一員としての意識を育む場所だ」という考えに基づいているのだ。
基本的に前者の考えは欧米に多い。最近では、エジプトやタイで日本式の教育が導入されているが、ドイツでこのような動きがあるというのは珍しい。なぜ、欧米に前者の考えが多いかというと、「社会性やコミュニティの一員としての意識を育む場所」が教会だからだ。カトリックにしろ、プロテスタントにしろ、毎週日曜日には教会に行くのがキリスト教者だ。そこでは、日曜学校が開催され、聖書の勉強や牧師からの説教があったりする。地域の人と共に教会に通うことで、自然と「社会性やコミュニティの一員」としての自覚が育つである。だから、学校は学習の場で十分なのだ。そのため、欧米ではクラスルームというものが無く、児童生徒が学習するために教室を移動するというスタイルが取られている。
しかし、欧米でも教会に通う人が減少していると聞く。また、移民の流入も多く、特にドイツは移民の割合が多い。今まで、道徳教育的側面を担ってきた教会の役割が低下し、その役割を学校が担うという事にも一理ある。エマニュエル・トッド氏によると、ドイツと日本はよく似た人口態勢らしく、清掃を通じた学校の役割の変化がドイツから起こったというのも意味深い。
一方、日本はどうだろう。「社会性やコミュニティの一員としての意識を育む場所」は明治の学制が始まってから学校が担ってきた。その指導者ともなる教師は、地域では尊敬される存在でもあった。学校で先生に叱られたとなると、親は子供に対して「お前が悪い!」と叱責したものだ。しかし、今は違う。先生が子どもを叱ろうものなら、親が血相を変えて学校に怒鳴り込んでくる。「うちの子のどこが悪いのですか!」という具合だ。これでは、学校が今まで担ってきた「社会性やコミュニティの一員としての意識を育む」という事ができなくなる。これはある種の危機と言えるだろう。小学校で暴力事案が増えているのもこのような背景があるのだ。
今の日本に「社会性やコミュニティの一員としての意識を育む」社会的装置はどこにあるのだろうか。
参考記事
日本では当たり前の「生徒の教室掃除の時間」 ドイツの市長が提案したら、大騒動になった…
https://news.yahoo.co.jp/articles/22fb068ffc2dad1e3d80af99f9162f314e1c24a4?fbclid=IwY2xjawOErf9leHRuA2FlbQIxMQBzcnRjBmFwcF9pZBAyMjIwMzkxNzg4MjAwODkyAAEeZP1Pin2-oKu0vopu2H56j2dLFJRMW6fkfggXxbLi18eQnylqu6QIuPulQVk_aem_Umqh3B-Y2zGY4HHAvQvc3Q

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