11月3日の東洋経済education × ICTに、「『学力低下』の原因はスマホでもコロナ禍でもない?法学者も指摘『小学校での探究やグループワークの増加』が問題か」という記事が掲載された。
記事には、こんな事が書かれていた。
東京23区内在住の保護者は言う。
「算数が得意なはずのうちの子が『時間の計算の問題が解けない』と泣きだしたんです。見ると13時36分の30分後は何時何分?といった基礎的な問題。私が5分ぐらい教えたらすぐに理解して解けるようになりました。どうしてこうなったかというと、小学校の授業は探究型グループ学習で『時間ってなあに?みんなで考えてみよう。考えたらそれを模造紙にまとめて書こう』という感じで、時間の計算の仕方を一切教えていなかったのです」
この内容を読んでみて、なるほどという納得感があった。と同時に、「また教員は同じ間違いをしている」と思った。教員は、新しい学習指導要領が始まると、それにシフトする。当然シフトするのが良いのだが、そのシフトの幅が大幅になるのだ。だから探究学習が大事と言われると、上の記事のようにそれにシフトしすぎて、基礎基本を疎かにしてしまう。時間の計算もできない子どもに、「時間ってなあに」という問いをすること自体が、あまり意味をなさない。時間の把握の仕方や計算の仕方を十分に把握してこそ、成り立つ問いであることは自明の理である。さらに、この教員は「時間ってなあに」という問いを子どもに投げかけることによって、どんな最適解を引き出そうとしたのだろうか。大人でも難しい哲学的問いである。
この過ちは、「総合的な学習の時間」が導入されたときにも起こった。教員は指導するのではなく、サポートするのだと言われ、全国小学校で教員が教えなくなったのだ。教員は基本まじめな人が多い。こうしろと言われれば、その方向に努力する。中教審などで新しい教育を提供する学者たちは、自分の研究の先端部分を提起するので、どうしても尖ってしまう。尖ったまま議論をするので、どうしても中教審での議論が先鋭化してしまうのだ。そして、そのまま学校現場に下りてきてしまう。ここで教員は、中教審の議論や提起を咀嚼しなければならないのだ。そして、今まで自分がやってきた教育や必要とされる教育のどこを変革し、どのように組み込んでいけばよいか、自分で考えなくてはいけないのだ。しかし、教員はこの作業が不得意なのである。本当は、創造的で面白いのだが、得意ではないところに教員の問題性がある。
とはいえ、教員ばかりに問題を押し付けるわけにはいかない。カリキュラムオーバーロードが常態化していることも問題なのである。中教審も新しいことを提起するなら、プラスだけを考えるのではなく、何かを「引く」ことも考えなくてはならない。今のカリキュラムは、ビルド&ビルドの状態なのだから、スクラップ&ビルドでなければならないのだ。いいや、スクラップ&スクラップで良いかもしれない。
とにかく、教員はどのように新しい課題に取り組んでいけば良いか、創意工夫を行い、整合性の取れた教育を行わなければならない。
「学力低下」の原因はスマホでもコロナ禍でもない?法学者も指摘「小学校での探究やグループワークの増加」が問題か
https://news.yahoo.co.jp/articles/061e22e0d15868c50e4c7f9788be109a7250f93b

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