5月27日のブログで、「妹尾氏に反論する」を書いたところ、妹尾氏から丁寧なコメントをいただき、大変感謝している。返事にも書いたが、氏の知見や視座には、大変刺激を受けているし、勉強もさせていただいている。一度、東京で直に講演会を聞かせていただいたこともあった。私の思いは、文科省を、氏のいう「仲間」に引き入れるほど、そして財務省に意見を述べるほどの大きなうねりを創出することが今は大事ということだ。文科省が「給特法を何とかしろという国民の声が大きくて、難儀しています」と財務省に泣きつくぐらいでないといけない。NHKに抗議している文科省にこのような姿勢は見えない。これが、教員の働き方改革、そして中教審答申を受けた給特法の取り扱いを巡る現局面であると思う。ここが、氏と考えを異にするところだろう。このまま、「4%→10%にしました。どうぞ、働き方改革進めてください」では、おそらく日本の公立学校はつぶれていくだろう。人材も集まらず、教育の質は低下し、学校の持続可能性が保てなくなる。あんな答申を作成した文科省の官僚、そしてそれを追認した中教審委員は、自らがとんでもないことをしてしまったと自覚したほうが良い。本当に、給特法をこのまま維持するのか、残業に対する正当な賃金が支払われない状況を続けていくのか、教育委員会-学校管理職の「時短へのインセンティブ」が効かない状況を放置したままで良いのか、保護者・地域に教員の勤務時間の短縮の必要性を充分に理解してもらわなくてよいのか、給特法を巡る運動は、ここが正念場であると思う。こういう気持ちで、妹尾氏に反論を試みた次第である。多くの方々のご意見やご批判を期待している。
さて、昨日のブログに書くことができなかったことを書こうと思う。これは、妹尾氏への反論というよりも、「ご意見を賜りたい」という気持ちの方が強い。何かというと、氏は「悪影響②」の中で、「さらなる教育改革が降ってくる」と指摘している。つまり、
文科省と学校との亀裂が深まると、教員側は、「どうせ今回も文科省はロクなことを言ってこない、余計なことを増やすばかりだ」という反応になりやすい。そうなると、文科省や中教審、あるいは政治家が提唱する教育改革や制度変更は、学校現場での運用・実践段階で形骸化する。骨抜きになりやすい。
(中略)
だが、そうなってくると、文科省や政治家からすれば、いつまでも、学校現場は問題だらけ、改革が浸透していないように見えるので、また追加的な教育改革や制度変更をしようとする。こうなっては、ますます学校は苦しくなる。
と指摘している。そしてその例として、平成時代に導入された「学校評価」「学校運営協議会」「コミュニティ・スクール」を例に挙げている。確かに、今までの学校経営に無い新しいシステムの導入である。面倒と思う教育委員会・学校管理職・そして教職員も少なくないだろう。しかし、この制度は、必要ではないかと思うのだ。
例えば、学校評価。学校評価については、学校関係者評価と第三者評価というやり方があるが、私が大阪府で経験したのは学校関係者評価である。大阪府では「学校教育自己診断」と呼ばれている。生徒・保護者・教職員に学校の教育活動全般に関するアンケート調査を行い、学校の強み・弱みを明らかにする取り組みである。教職員というのは、生徒を評価するのに、自らが評価されるのを嫌う傾向がある。そして、自分の教育活動について自己満足的に見てしまうことも否めない。この学校関係者評価は、学校の教育活動を客観的データとして示すものだ。生徒・保護者の様々な事象についての肯定感について検証すること、そして教職員の肯定感とのミスマッチ度を検証することで、校長をはじめとした教職員の教育活動の自己点検を行うツールである。この分析作業を行うことで、学校経営の方向性の多くが見えてくるのだ。校長の経営方針のエビデンスにもなるものである。
しかし、学校評価をどこまで学校経営に役立てているかということに関しては、教育委員会や校長の力量による。ある県のある高校の学校評議員をした時に、会議で示されたのは、教員の評価のみであった。「内輪の評価を聞いても役に立たない。教員が仕事の対象としている生徒・保護者がどう思っているかを聞かなければ、結果の評価はできない」と思ったが、言わなかった。このことを言っても理解してもらえるかどうかわからなかったからだ。
学校運営協議会やコミュニティスクールにしてもそうだ。私が住む河内長野市の小中は全てコミュニティスクールになっている。大学院で勉強しているときに、フィールドワークとしてある小学校の学校運営協議会に参加させてもらった。びっくりしたのは、地域の住民、そして保護者が学校の教育活動に深く関わっていることだ。当然、このことにより主幹教諭や教頭を中心とした担当者の仕事も増えるだろう。しかし、朝の登下校の見守りや漢検・英検のお世話など、地域の方々が参加することによって、教職員の負担軽減にもつながっている。河内長野市教育委員会を訪問した時も、小学校での田植え体験や校庭の花壇の世話、そして星空観察など、地域の人々がコミュニティスクールを通じて積極的に関わっているので、ゼロから教職員が準備する手間が省けると聞いた。
「学校評価」「学校運営協議会」「コミュニティ・スクール」を面倒くさいもの、文科省からやれと言われてやらされているものとして、妹尾氏は例に挙げているが、果たしてそういう評価で良いのだろうかと疑問に思う。必要なツール、役立てることができるツールとしての機能もあるのではないかと思うのだ。ただ、立教大学の中原教授も指摘するように、教育行政と民間の経営の大きな違いは、業務内容とその資源が統一されているかいないかにある。中教審が答申を出して教育内容を決めていく。そして〇〇教育はどんどん増えていく。しかし、それに見合った資源を中教審は示さない。教育環境の整備については、文科省の違う部署が担っている。それも財務省に財布を握られながらである。民間ではそういうことはあり得ない。新しい事業を行うには、そのプロジェクト内容とそれにかかわる経費を社長を中心に役員会で決めていく。ここに教育行政の大きな問題と働き方改革の必要性、そして現場の苦しみが十分に伝わらない問題点があると思う。
話を元に戻そう。妹尾氏は、本当に「学校評価」「学校運営協議会」「コミュニティ・スクール」を面倒くさいもの、文科省からやれと言われてやらされているものとして理解しているのだろうか。自治体によって、各学校によってはそういうところもあるかもしれないが、それで学校本来の教育目的が十分に果たせるのだろうかと思う。
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