3月19日、読売新聞に「再考デジタル教育」(中)が掲載された。東京都内の公立小学校のデジタル端末の活用状況が詳しく記されている。端末を忘れた、電池切れ、など、そんな児童がクラスの1/4いるという。これでは、なかなか授業を始められない。文科省の政策と教育現場の実態が合っていないという指摘である。確かにそうだろう。ただ、デジタル教科書になれば、このようなことも減っていくのではないかと思う。端末を忘れるという事は、教科書を持たずに学校に行くことになるので、家庭での指導も端末の充電や忘れ物チェックに力が入るのではないか。
問題は、そんなところにあるのではない。最後に記載されている東北大学の大森教授の指摘が重要である。
「デジタルの導入ありきで、科学的根拠に基づいて政策を決めるプロセスが軽視されている。義務教育は基礎学力を形成する重要な時期。やり直しがきかないという責任を自覚し、再検討すべきだ」
という指摘である。全くその通りだ。デジタル教科書を使えば、学力が向上するというまとまった研究は報告されていない。「個別最適化」や「主体的・対話的で深い学び」については、学習が円滑に進んだという実践報告はされているが、果たして一般化されるまでになっているのかという問題がある。何が最も重要かと言えば、やはり「学力の向上」という課題だろう。(上)で報告されたフィンランドを社会実験と考えれば、少なくともデジタル教科書に関する肯定的な評価とは言えない。だとしたら、シンガポールはどうなのか。シンガポールもデジタル化が進んでおり、PISAの結果もトップクラスだ。デジタル教科書導入によるシンガポールでのプラス面、フィンランドでのマイナス面を分析することが必要なのだ。私はこれを昨日「探究できない文科官僚」として書いたのだ。大森教授と全く同意見である。とにかく、科学的エビデンスに基づいて分析すべきなのだ。
記事によると、コロナ以前は文科省も「紙の教科書」の重要性を認識していたという。考えが変わったのは、コロナ禍で一人一台デジタル端末が配布されてからだ。「配布されたからには、使わなければ・・・そうだ!デジタル教科書にしよう!」という発想なのだ。短絡的というか何というか。これでは、教育政策を担う資格があるのかと思ってしまう。文科省がここまでデジタル教科書に固執するのは、財務省からの圧力があるのではないか。費用対効果を求める財務省からすれば、デジタル端末の使用率に注目する。そんな「外圧」が文科省にあるように思うのだ。
さて、明日は(下)だ。読売新聞は何を書くのだろう。
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