5月12日、今日は「母の日」である。母の日に合わせたわけではないが、4月に墓参りに行ってから、GWも行くことができなかったので、昨日墓参りに行ってきた。すると、あちらこちらで新しい花が供えられており、お墓まいりに来られたのだと思った。母の日を前にお墓の掃除も含めて参られたのであろう。母が無くなって数年経つ。いまや「ありがとう」も言えないし、プレゼントも渡せない。本当、「親孝行、したいときには親はいず」である。
私の母は、和歌山県の農家の生まれである。4人兄弟の次女として生まれ育った。あまり語ることは無かったが、家の事情で高校へ進学させてもらえなかったようだ。一度だけ、その悔しさを聞いたことがある。中学を卒業し、編み物を習っていた。自立し、河内長野の服装店の編み物をすることで生計を立てていた。その頃に親父と出会ったようだ。
母は、とてもおおらかで肝の据わった人だった。親父はどちらかと言えば、細かいことにつべこべ言うタイプで、私が中学校になって、なんとなく大人の世界がわかるようになったころに、内心「親父とお袋は性格が入れ替わったほうがいい」と思っていた。家は、商売をやっていたので、家の手伝いをするのは、当然の私の仕事だった。買い物や風呂焚きは、小さいころからやっていた。サバをカンテキ(といっても分からない人のほうが多いだろうが)で炭で焼くとき、サバから落ちる油が、ジューッと燃えるのが面白かったのを覚えている。サバを焼くのも、私の仕事だった。
お袋は、私を愛情を持って厳しく育てたと思う。めそめそしていても、口惜しいことがあっても、「若い時の苦労は、買ってでもしろって言うんや」「口惜しいことも肥やしになる」と慰めているのか、叱咤しているのかわからなかったが、おふくろに怒られることは嫌ではなかった。保育所に行くのが嫌で、駄々をこねているとき、バス停まで引きずられていったことはなぜかよく覚えている。よほど、嫌だったのだろう。
幼稚園のとき、真性脳髄膜炎を患った。当時、生死にかかわる、治っても脳の機能は元に戻らないと言われたようだ。4カ月入院し、幼稚園は中退だ。今でも覚えているが、検査兼治療のために背骨から髄液を採取しなければならない。これがめちゃくちゃ痛い。泣くと筋肉が硬直して、髄液に血が混じり、何回もやり直さなければならない。まだ、幼稚園児である。私は泣き叫んだようだ。看護師さん3人掛かりで抑え込むが暴れたらしい。そのとき、母親が私の体を押さえながら、「がまんせい!」と一喝した。泣きじゃくりながら我慢した。あとから聞いた話だが、横に親父もいたようだ。あとで、親父がお袋に「お前、あんなことようできるな・・・。俺はかわいそうで見てられへん」と言ったそうだ。しかし、お袋は、「病気をちゃんと治さないと、あの子の将来がかかっている」と言い切ったらしい。病気が治って数年後に聞いた。これがお袋の愛情なのだろうと思う。
お袋は、リュウマチを患っていた。年をとってからは、指が曲がってしまい、日常生活も苦労していたと思う。治療のため入院することも度々だった。できる限り、病院に通い、洗濯や身の回りのことをしてあげた。お袋は、仕事が終わってからくる私に、「すまんな、疲れているやろに・・・」と言いながら、「お父さんが来てくれるより、あんたが来てくれる方がなんぼか嬉しいわ。気が休まるねん」と喜んでいた。
お袋は、ちらしずしが得意だった。我が家の味だと思うが、何杯もお代わりした。あのちらしずしを最後に食べたのはいつだったのだろう。もう思い出すことができなくなってしまった。懐かしい味だけが、心に残っている。
今日は、「母の日」
“今日は、「母の日」” への1件のコメント
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時々、母につらくあたることがある。わかっているのに、ついついきつく言ってしまうことがある。孝行したいときには親はなし、にならないように、そして、年寄りの寂しさをわかる人間になるよう、努力していきたい。還暦を過ぎて、こんなことしか言えない自分が情けないが。
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