11月3日に共同通信が発表した「教員の残業代支給」の報道は、「観測気球」のようだ。私が購読している読売新聞には掲載されていないし、NHKのニュースも報じていなかった。文科大臣が「政府内での検討」を否定したネットニュースは出ていたが、それ以外は目にしていない。それにしても、教育関係者らしい人たちの反応は早かった。私のような超マイナーなブログにも書き込みがいつも以上にあった。中教審関係者は「ちゃぶ台返し」と反発していた。14回も中教審の会議をして、その結果を無視されたのだから、怒り心頭は十分に理解できる。なかなか面白い反応だと思って観察していた。
この「観測気球」への反応について少し意見したい。
第一に、残業代支給と働き方改革を二者択一的に捉える考えだ。残業手当が支給されたら、配置される教員増も行われないだろうとか、中教審が提案した働き方改革の提案が後退させられるとか、である。そういうことを仕掛けてくる財政規律派の権化である財務省の攻勢はあるだろうが、そもそも残業代支給と働き方改革は、二者択一の土俵に載せるべきものではない。残業代支給とは、正当な労働に対する対価の問題であって、労働基準法に反しているのである。だから、残業代支給は、マイナスからゼロの位置になっただけであって、ここから本格的な働き方改革が始まるのだ。
第二に、教員の仕事の残業とは何かということについての混乱である。当たり前のことであるが、部活動も教材作成も定時を超えて行えば、残業である。論点となるのが、自己研鑽の時間であろう。医師の過労死問題でも病院側と遺族側でこの点が争われることが多々ある。私が附属学校で働いていた時も、この話題が出た。当初は、自己研鑽の範囲を狭く捉えようとしていた。例えば、教材作成ではなく教材研究の範疇で、先進的な実践を学ぶ自主研修(例えば読書会等)は、残業の範疇に入らないという理解が主流だった。しかし、社労士の研修では、できる限り広く自己研鑽を残業として理解すべきという考えが示された。職安もその方針らしい。よって、先の例については、残業と理解された。自己研鑽でも残業として理解されない例もある。例えば、簿記の資格を取るために学校で勉強するという例は、教科に関係なければ残業として認められない。よって、このように考えると、通常我々が行っている仕事については、そのほとんどが仕事=残業として理解すべきだろう。
第三に、タイムマネジメントの問題である。何十年とタイムマネジメントと関係なく仕事をしてきた教育現場では、タイムマネジメントという言葉は死語に近い。特に育児や家事、介護等で急いで帰宅する必要のない教員は、時間に余裕があるのか、クラブ指導をしたのちに、夕食を取って8時頃から10時ごろまで仕事をするなどを平気で行う。私の経験では、残業代支給が始まってからは、残業する場合は「何の仕事をどれくらいするのか」を原則午前中に教頭に申請することになった。不測の事態で残業しなければならなくなった時も、教頭に同様に申請するようになったのだ。教頭は個々の教員の残業時間を把握し、月当たり45時間を超えないように管理を行った。当然、個々の教員は1日の仕事、一週間の仕事を計画的に行うようになる。これが通常であるのだ。今までの学校現場でタイムマネジメントが如何に行われていなかったかということである。
第四に、働き方改革の推進は、停滞するのではなく、より促進するという事実だ。13%に教職調整費がアップされても税金から支払われるのだが、定時に帰っている教員にも支払われる。残業代で支払われるようになれば、働き方改革のインセンティブが強く働くのだ。当然、部活動の地域移行をはじめ、教員の業務の見直しは十分に行わなければならない。この時こそ、中教審の働き方改革の指針は生きてくる。働き方改革をやってもやらなくても13%の調整額が支払われるよりも、強烈に、中教審の指針は生きてくるだろう。
とにかく、この「観測気球」で、如何に学校現場が「働かせ放題」にズブズブに浸かっていたかがよくわかった。まだまだ議論が必要だ。
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