やはり「グリ下」は必要かも・・・「不登校児童生徒の実態把握に関する調査報告書」からみえること

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 令和2年度の文科省の調査で「不登校児童生徒の実態把握に関する調査報告書」が報告されている。詳しくは、以下のwebを参照してほしい。

不登校児童生徒の実態把握に関する調査報告書

 この報告書を読んでいると、不登校を経験した児童生徒の状況がある程度わかる。結論から言うと、不登校を解決するために、学校や相談機関、スクールカウンセラーなどの、ある種「大人が用意したセイフティネット」はあまり効果を発揮していないのではないかと思ってしまう。まずは、次のグラフをみてほしい。これは、
「あなたが一番最初に学校に行きづらい、休みたいと感じ始めてから、実際に休み始めるまでの間(休みがちになるまでの間)で、どのようなことがあれば休まなかったと思いますか。実際にあったかどうかにかかわらず選択してください。(複数回答)」
という問いへの回答である。

「学校の友達からの声かけ」が少し多いが、圧倒的に「特になし」が多いのである。なぜ「特になし」という回答が多いのだろう。勉強を個別に教えてもらったり、友達から声をかけてもらったりすると、学校に足が向くように私たちは考えてしまう。ところが、そうではないのだ。次のグラフは、
「学校を休んでいる間のあなたの気持ちとして、当てはまるものをそれぞれ選んでください。(単一回答)」
への回答で肯定感の割合を示している。

児童も生徒も7割近くが「ほっとした・楽な気持だった」「自由な時間が増えてうれしかった」と答えている。こういう気持ちになっている児童や生徒にいくら働きかけても、学校への復帰は中々難しいのではないか。要するに、不登校状態になる生徒は、学校という社会に疲弊しているのだ。その疲弊の原因は、勉強であったり、クラスの人間関係、先生との人間関係、部活動との関係、様々な要因があるだろう。しかし、総じて「学校」という社会システムに疲弊しているのではないかと思われる。学校関係者に追い打ちをかけるようで悪いが、次のデータも衝撃的である。これは、
「学校を休んでいる間、どのようなことがあれば学校に戻りやすいと思いますか。実際にあったかどうかにかかわらず選択してください。(複数回答)」
の結果である。

半数以上が「特になし」と答えている。不登校という現象を、学校というシステムからの逃避と考えるならば、教師はもちろんのこと「学校の匂い」を感じ取ってしまう相談機関や、学校で普通に生活を送っている友達からのアクセスも、中々有効打ではない。だから、「グリ下」に集まるのかもしれない。そこには、学校の匂いがしないからだ。よく似た境遇の若者が集まり、今の自分の思いに共感してくれる、苦しさを分かち合える、話を聞いてくれる、自分を否定されることが無い安心感がある、時間の制約が無い、などなど、学校というシステムになじめない若者にとっては、砂漠のオアシスであり、リハビリテーションの役割を果たしているのだろう。ここでエネルギーを蓄えたら、やがて自分の足でこのオアシスを抜けて歩き出すのではないかと思ってしまう。前にブログで書いた田村弁護士の活動も、自分で歩いていこうと思う若者を手助けする活動なのだろう。
 こんなことを書くと異論反論もあるだろうが、10代の若者にとって「グリ下」のような場所は必要なのだろう。しかし、そこには犯罪につながる大人の罠も存在する。だから、大人は「安心してエネルギーを貯められる場所」としてグリ下を保護することが必要なのではないか。そんなことをこのデータから感じてしまう。

 ところで、学校はこの不登校問題に何ができるのだろう。一旦、学校というシステムに疲れ始めると、中々回復が難しい。大人が会社や仕事に疲れて離職したり、休職したりするのと同じ現象だ。そうすれば、疲れさせないことが大事だ。それは何も「楽をさせる」ということを言っているわけではない。大人でも自分に裁量権があってやりがいのある仕事には、たとえしんどくてもストレスをあまり感じない。若者も同じだろう。学校で行われる様々な教育活動に意義を感じなかったり、やりがいを見つけられなかったら、ストレスはどんどん増す。次のグラフは、
「あなたが一番最初に学校に行きづらい、休みたいと感じ始めたとき、以下について、自分のことをどのように感じていましたか。(学校以外のことでも構いません。)(単一回答)」
の否定感の結果である。

中学校では、「勉強が得意だった」という項目の否定感が60%を超えているし、運動についても60%近い数値になっている。不登校を予防する、つまり学校というシステムに疲弊させないためには、勉強や運動へのフォロー体制が必要なのだろう。中学校に入学すれば、学習内容も難しくなるし、心身の成長段階もバラバラである。個別最適化の教育を推進することで、それぞれの生徒の到達段階での「やりがい」を感じ、成長を実感することができる教育が重要なのではないかと思う。

 今回は、文科省のデータを用いて、文科省とは違う切り口で考えてみた。文科省は、どうしても自己のシステムの中で原因や対策を考えてしまいがちだが、若者は文科省の枠を既に飛び越えてしまっている。大都市で多くの若者が救いを求めて集まり、集まる場所が無い若者は、インターネット上に救いを求める。この現象を「悪」としてだけ見るのではなく、旅を続ける若者のリハビリとみてあげることが大事なのではと思う。いろいろとご意見ください。研究者の方もお願いします。


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