「池波」的だった「べらぼう」


 12月14日の放送で、「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」が終わった。1年間、このドラマを観て、傑作だと思うのだ。江戸中期の田沼時代、その真逆を行く定信の時代、そして江戸の浮世絵文化とその後に続く化政文化への架け橋を描き切った作品だと思う。そして、ドラマの前半の舞台であった吉原をNHKが描いたというのも、そして賛否両論はあったが、かなり攻めているというのが良かった。
 しかし、平均視聴率は高くない。というより、平均視聴率が9.5%とワースト2だという。「光る君へ」を下回ったのだ。このドラマの面白さを日本人は感じなかったのだろうか。

 このドラマの面白さの一つは、前半での田沼政治と平賀源内、そしてまだまだ若造の蔦屋重三郎との関係にある。私の世代は、「田沼政治=賄賂」という印象で教えられてきたが、渡辺謙さん演じる田沼意次が、どれだけ先進的な政治をしてきたかがよくわかる。封建制度である江戸時代に、貨幣の力を見抜き、殖産興業で国を富まそうとした意次・意知親子の政策は、明治政府の政策に通じる。歴史にIFはないが、彼の政治が続いていたら、日本の資本主義はもっと早くに訪れていたのではないかと思うのだ。
 二つ目は、喜多川歌麿を中心とする文芸家たちの生き生きとした活動だろう。そしてそれを支える蔦重のプロデュースの能力の高さが、これでもかと描かれていた。そして、私の興味は、写楽をどのように描くかという事だった。写楽は謎の浮世絵師だ。前半で登場した唐丸が、謎の浮世絵師として登場するのかと思っていたが、それは歌麿だった。そうすれば、写楽は?と思っていたら、それは当時の文芸家たちの共同作業という登場だった。写楽はいなかったし、みんなが写楽だったのだ。この謎の人物を描くのに、突拍子もない描き方だと思ったが、終わってみればなかなか粋な描き方だ。
 三つ目は、一橋治済だ。歴史上謎多き人物として扱われているが、彼の暗躍をもう一つの糸として、様々な事件に絡ませたのは、脚本家の腕だろう。史実があいまいなところを、ものの見事にドラマに取り込んだ。この糸があったからこそ、ドラマに厚みが増したように思う。

 さて、ここで思うのが、これほど面白かった大河ドラマなのに、なぜ平均視聴率がワースト2なのかという事だ。それは、日本人が大河ドラマに「司馬遼太郎」的なものを求めるからではないかと思うのだ。司馬氏の小説は、司馬史観と言われるように設定そのものがダイナミックである。登場する人物も、歴史のキーパーソンだ。それだけに、司馬ファンは日本人に多い。私もその一人だ。
しかし、今回の「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」は、「司馬遼太郎」的ではなかった。最終回を迎えて思ったのは、極めて「池波正太郎」的だと思うのだ。池波小説は、人情を大事にする。人の気持ちの機微を大切にするのだ。蔦重を中心とする江戸の市中の人々を描いたのは、まさに人情ではなかったか。

 日本人が「司馬遼太郎」的な期待をしてしまう大河ドラマに、「池波正太郎」的な「べらぼう」が放映された。この辺りが視聴率の低さの要因ではないだろうかと勝手に思ってしまう。

 因みに私は池波正太郎のファンでもある。鬼平が言う「人は悪いことをしながら、良いこともするのだ」という言葉が大好きだ。


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