「最高の教師」ボスの相良はリアリズムに欠ける


 2度目の人生を歩むという有り得ない設定ながら、セリフが心に刺さる「最高の教師」。第8回は、鵜久森の死に関して、教室を支配していた相良の告白という回だった。今まで力で教室を支配していたボスである相良が自分と向き合うという設定で、相良に自分を見つめなおすことを迫る担任の九条には迫力があったが、「相良」というキャラにはリアリズムが欠けるように感じた。
 3年D組には、鵜久森に対する壮絶ないじめがあった。その中心人物が相良であり、そのグループだった。しかし、もう高校3年生である。いじめ発生のデータを見ると、小学校高学年ごろから増加し、中学校の3年間も増え続け、高校1年生を境に急減する。ちょうどこの時期に、アイデンティティの確立が始まり、「いじめを行う者」に対する軽侮が起こる。簡単に言えば、「まだ、そんなことしているの?中学生じゃん!」という感覚になる。だから、いじめは高校1年生で激減するのである。この現実の世界から考えると、相良はあまりにも「子ども」である。これがリアリズムに欠ける。
 さらに、5年前に母親を亡くし、金持ちの「坊ちゃん」として育った相良。この「相良」のキャラクターの描き方が雑である。このような相良がなぜ育ったのか。その理由が詳細に描かれていない。それ故に、彼の涙の告白も、土下座の謝罪も、仏前での慟哭の謝罪も心に響かないのである。彼がどのように育ち、どのような過程で鵜久森をいじめ、どのように3年D組を支配するようになったのか。鵜久森に対抗するキャラであるがゆえに、この描き方が雑なのが残念である。

 もうひとつ、リアリズムに欠けるのが、鵜久森の母(吉田羊)の描き方である。母は、仏前に鵜久森の写真を飾るのをやめた。笑顔の写真を飾っていると「その顔しか思い出せない」というのが理由らしい。そんなことはないだろう。一人娘の鵜久森である。どんな写真を飾ろうと赤ちゃんの頃からの映像が、昨日のように思い出すことができるのが親である。この場面、後に相良が仏前で「写真がない」と言い、九条に鵜久森を思い出せと言われてもいじめられている鵜久森しか思い出せないという場面に繋がる。しかし、これもいかにも演出臭さを感じてしまった。

 この「最高の教師」、設定はとても現実の世界では有り得ない設定ながら、九条をはじめ、生きなおそうとする生徒たちの「覚悟」のセリフには、心に刺さるものがあった。それだけに、最大の罪を負うべき相良を描く今回が、リアリズムに欠けたのが残念である。


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