前回の続き、「日本の戦争はいかに始まったか」の第二の印象、「第9章 対米開戦の「引き返し不能点」はいつか」です。この章は、日清・日露戦争から始まるこの連続講義を行うそれぞれの研究者に対して、第9章のタイトルと同じ質問をし、その回答をまとめたものです。それぞれの識者によって、回答の内容は違います。最後に波多野氏の回答があります。波多野氏はターニングポイントを以下のようにまとめています。
第一は、1938年近衛内閣が、東亜新秩序を発表し、欧米が猛反発した時点
第二は、1940年日独伊三国同盟の締結
第三は、1941年独ソ戦開戦
第四は、1941年7月南部仏印進駐
第五は、日中の仲介を依頼していたアメリカから最後通牒を突きつけられた「ハル・ノート」
です。波多野氏は、ターニングポイントを提示しながら、それぞれのポイントで、「それでも引き返すことはできたのではないか」と問題提起しています。ここでは、その根拠は示しません。是非、読んでほしいと思います。残念なのは、各識者のそれぞれの意見についての討論会が開催されていないことです。ここでそれぞれの識者の知見による相互の意見交換があれば、この「引き返し不能点」ももっと鮮明になると思いました。
以下は、私のまるで根拠の無い意見です。私は、満州事変から支那事変に発展し、全面的な日中戦争に突入する時が、大きなポイントだと思っています。満州事変までは、対ロシア・対ソ連の南下政策に対抗するため、日本を守るために朝鮮半島を守り、朝鮮半島を守るために満州事変を起こすという、一定の戦争に関する目的があったように思います。ただし、関東軍は満州を植民地にするつもりだったようですが、国際情勢はそれを許さず、満州国という傀儡政権の樹立になったのですが。この満州国にコミットすることは、果たして日本の国益に適ったのかというと決してそうではない。徐々に満州から手を引き、対アジアに対して相互に協力関係を結ぶ道さえあったと思います。帝国主義的政策により、領土の拡大、影響力の拡大は、満州までが限界だったのではないでしょうか?そしてその満州からも徐々に手を引き、他の国と共に対等の立場で欧米の植民地政策に対抗していくこと、それが戦前の帝国主義時代に求められた日本の役割ではないかと思います。
このように書くと、そのような選択は果たして可能だったのか、夢の話ではないかと思われるかもしれませんが、この本を読むと決して夢物語ではなく、実現可能な選択肢であったことがわかります。そうすれば、なぜ当時の政府は、戦争回避の選択しなかったのか?それは、国民が熱狂的に帝国主義政策を指示したからです。ここが大きなポイントだと思います。もし、明治維新を成し遂げた第一線の偉人たちが政府を形作っていたら、この愚かな戦争をせずに済んだかもしれません。伊藤博文はもちろん、好戦的とイメージされている軍人の山県有朋までもが、日清・日露の戦争を回避するために、努力を続けていたのですから。明治維新を成し遂げた偉人たちの次の第二世代には、たとえ国民世論に反してでも、日本の行く末を考え、大陸への進出を停止し、縮小していく度量もエネルギーも足りなかったのかもしれません。この政策転換は、命をかけた転換だからです。
中国大陸で暴走する関東軍、それを熱狂的に支持する国民世論、関東軍と国民世論の前になす術を持たない政府。今私たちが考えなければならないことは、新たな戦前にしないために、どこがターニングポイントであるかをしっかりと見据える目と耳と頭脳を持つことだと思います。
以上が、この本の読後の感想です。多くの方にこの本を読んでいただき、意見を戦わせることを望みます。
「日本の戦争はいかに始まったか」(新潮選書)
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