「教員の学力低下」についての反応



 2月6日にNewsweekの記事を基に、教員不足からくる教員の学力低下についてブログを発信した。びっくりするほど、アクセス数が伸びていた。関心が高いのか、私のブログに意見があるのか、いろいろなコメントをいただいた。ここでお礼を申し上げたい。ありがとうございます。今回は、私見を追加したいと考えている。

 私は高校の教員である。だから、小学校の教員に求められる資質能力と少し違う面がある。というのも、どこの自治体でもそうだと思うが、高校は高校入試によってランク付けされている。私が教員になった頃は、地域の1番手・2番手高校出身の教員がほとんどだった。しかし、最近は、中堅校と言われる高校卒の教員が多い。高校の授業は、進学校ほど正確でより幅広く、そして深い知識が求められる。大阪府立高校の校長は、教員の評価に際して授業見学が義務つけられている。2学期の9月から11月にかけて授業を見るのだ。校長最後の年には、非常勤講師の方の授業見学も義務つけられたので、なかなか大変である。しかし、いろいろな教科・科目の先生の授業からいろいろな知識を学べて楽しい。自分が高校時代に学んで「?」と思っていた疑問も解決したりして、「!」と思ったりできる。教頭時代から授業見学をしているので、10年間授業見学をしたことになる。授業見学をしていると、様々な事に気付くのだ。

 本題に入る前にもう一つ前提を紹介したい。大阪府立高校では、生徒による授業評価も義務つけられている。7月と12月に行うことが基準である。通常は、点数化されたものが管理職と教員個人に還元されるが、これだけでは何が良くて何が悪いのか、なかなかわかりにくい。そこで、私は生徒の自由記述(任意)を導入した。「良かった点」と「改善してほしい点」である。そうすると、生徒は書くわ、書くわ、ものすごい量を書いてくれるのだ。それを読むと授業見学をしなくても、その先生がどんな良い授業をしているか、逆に改善しなければならない点がどこかがはっきり見えてくる。この授業評価を頭に入れて2学期の授業見学を行うのだ。そうすると、生徒の評価は、ほぼ正しいことがわかる。生徒が「!」と思うところは、私も「!」と思うし、「?」と思う点も同じなのだ。こういうことを前提として、私見(多分に偏見が含まれるが・・・)を述べたいと思う。

 国語の先生の力量がはっきり表れるのが、文学では夏目漱石の「こころ」と森鴎外の「舞姫」である。この文学作品をどのよう教えるかというところで、国語教師の力量がわかる。力量がある先生は、この作品を通じて近代的自我の確立とその揺らぎまで踏み込んでいくが、力量に乏しい先生は、恋愛問題から抜けきらない授業をしてしまう。前者の先生は、京都大学や奈良女子大出身の先生だったが、後者は中堅私学の出身の先生だった。更に、古典の力量がはっきりするのが、源氏物語である。私は、高校時代古典が大嫌いだったが、力量のある先生の解説はとても面白い。
 また、こんな先生もいた。漢文を英語で教えるのだ。漢文の構文と英語の構文は同じである。漢文の場合は、主語がないだけ。だから、漢文を英訳してくれると漢文の構文がとてもわかりやすい。聞いていて「!!!!!」の連続だった。この先生の出身大学は早稲田大学だった。共通テストの国語の問題を、まるで数学の問題を解くように論理的に解説する先生の評価も高かった。この先生は、灘校、東北大の出身の先生だった。

 地歴公民の先生の力量は、豊富な知識量とその知識の深さによって差が出る。だから、授業見学をしていて、「ほー、そうだったのか」と数学の教師である私に思わせる先生の授業は、質が高い。この先生は京都大学出身だった。ところが、時々「そんなことは俺でも知っているし、俺でも教えられる」と思ってしまう先生もいるのだ。そういう先生は、やはり偏差値の低い大学の出身なのだ。一般教養が若干不足していると言わざるを得ない。

 理科の先生で素晴らしい先生に出会った。生徒が保護者の授業参観の時に「是非、見に来て!」というほどの先生だ。この先生は、共通テスト出題問題を実験で実施していた。出題問題の理解が、とても深まる授業だった。この先生は、大阪大学出身の先生だった。

 英語の先生の力量は、長文読解がどこまでできるかだろう。上智大学の長文読解の入試問題を教材に使って授業をされている先生がいた。この先生も授業の評価が教科内で1・2位を争う先生で、神戸大学の出身だった。もう一人の先生は、大阪外語大学、今の大阪大学の出身の先生だった。

 数学の先生は、偏差値の高さと少し違うところがある。京都大学・大阪大学の入試問題を解ける先生は、やはりすごい。やはり、京都大学・大阪大学の出身の先生だ。しかし、授業がうまいかというとうまい先生もいるが、下手な先生もいる。なぜか。数学は生徒にとって難しい科目の一つだろう。頭のいい先生は、生徒がどこで躓いているのかがわかりづらい。先生にとっては当たり前のことだから、生徒がどこで躓いているか気づきにくいのだ。だから、数学の力量のある先生は、「かゆい所に手が届く」先生が求められると思っている。

 ここにあげた例は一部であるが、授業見学をしているといろいろな先生に出会う。どんどん授業を見る目が肥えてくる。授業の力量を上げるには、授業見学は有効な手段だと思う。私は、偏差値50未満の大学出身で素晴らしい授業をしている先生に出会わなかった。偏差値50~55でもいなかった。小学校ではそんなことは無いのだろう。知識も大事だが、人間性がさらに求められるのだろう。この辺りの問題が、議論が交錯していることにもつながるのかもしれない。


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