「宿題って必要?」という議論


 5月17日の読売新聞の「The 論点」に「宿題って必要?」という記事が掲載されていた。「必要」という意見には、「宿題が無ければ何をすればよいかわからない」「面倒くさいけど、将来役立つ」などの意見。「必要ない」という意見には、「自分に必要と思えない宿題には効果が得られない」などという意見がある。さて、この議論、どうなのだろう。
 目標は、児童・生徒の学習習慣をつけること、その結果、学力の向上を図ることだろう。この目的の達成の手段として、宿題の是非がある。宿題が不必要という意見は、性善説に立脚している。子どもは、興味があるものについて、誰もが自発的に勉強するという論だ。逆に、必要という意見は、どちらかと言えば、性悪説に立脚しており、「子どもは、言われなければ勉強しない」という論である。どちらが正しいというものではない。どちらも正しい。
 この議論で注視しなければならないのは、家庭の教育力である。親の学力が高いとか低いとかだけの問題ではなく、子どもの学習への関心度がどれだけあるのかという点が大きい。この点を克服するためにも、全く宿題を無くしてしまえば、家庭の教育力の差が、ダイレクトに学力格差に現れてくることが予想される。

 そこで、私の考えだが、学習指導要領に定められている最低限の学習目標の達成が得られるような宿題は、全ての児童・生徒に課すべきだろう。しかし、最低限レベルでよい。なぜなら、自主的な学習を阻害する恐れがあるからだ。小学生の頃に、私の担任は「自由ノート」を課した。何を勉強しても良い。何か、自分に必要だと思うことをノートにまとめるものだ。私は、漢字練習をしたが、その時の評価は標準だった。百科事典に記載されている内容を自分なりにまとめたときは、高評価だった。だから、どんどん興味がある内容を百科事典を材料にまとめた。今で言う「調べ学習」である。当然宿題も出た。宿題をさっさと済ませ、1日1時間以上は調べ学習をした記憶がある。中々、楽しい勉強だった。

宿題と自由学習、テーゼとアンチテーゼのような議論ではなく、もう少し止揚してはどうだろう。


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