6月23日の読売新聞にシリーズ「変わる部活動」の番外編として名古屋大学院の内田教授の意見が掲載されていた。内田教授の意見をまとめると次のようになる。
①従来のまま民間に移行するのではなく、持続可能な形に変える必要がある。
②部活動は、子どもたちにスポーツ・芸術・文化に触れる機会を与えてきたので、残すべき。
③学校と地域がどのようにかかわるのか、結論は時期尚早でいろいろな形を模索すべき。少なくとも、「やる」「やらない」を自由に選べることが大事。
④しかし、今後の部活動を考えるとダウンサイジングすることは必要。
⑤「勝利至上主義」から脱却して、部活動の楽しさを伝え、エリート養成とは区別すること。そのために大会主催者が練習日などのルール設定をおこなうこと。
⑥民間移行すれば、保護者に対価が求められるが、きちんと対価を払うことが必要。ただ、困窮家庭には自治体の援助が必要。
以上が、内田教授の主張である。基本的にこの意見に賛成で良くまとまっていると思う。特に、「勝利至上主義」からの脱却から中体連・高体連などの主催者団体が、参加条件を厳格化することを提案していることは、画期的である。そもそも、高体連は別にしても中体連が主催する「全中」は必要か?という議論が必要である。心身ともに発達過程にある中学校段階で、全国出場や全国1位を争うことに何の意味があるのだろうか。都道府県大会で十分、せめてブロックの地方大会で十分だろう。全中があるがゆえに「勝利至上主義」が蔓延るのである。さらに、私立中高もこのルールの中に入れるべきである。私学の経営戦略の中に部活動による強豪校路線があるが、その強豪校路線の中で、どれだけ多くの生徒たちが犠牲になっていったかはあまり明らかにされていない。例えば、「ビリギャル」の主人公の弟は、野球の強豪校に入部して挫折する。その結果、本人も自暴自棄になり、家庭もぎくしゃくするのである。そもそも、親も自分の夢を子どもに押し付けるのはやめにするべきだ。特に、野球・サッカーの分野で自分が果たせなかった夢を子どもに託す親が目につくが、どれだけ自分が「毒親」になっているか、自覚すべきだろう。
そもそも、日本のスポーツのとらえ方に疑問を持っている。どうも、日本人は「一芸に秀でたものは、全てに秀でる」という考えが染みついているようだ。そして、スポーツを「哲学化」してしまう。それは、剣術が剣道、柔術が柔道 茶や花が茶道、華道と「道」になったことでもうかがえる。そこに何らかの精神性を求めるのが日本人の特質のように思う。とにかく、日本人は「極める」ことが好きなのかもしれない。そして、「極めた人」を尊敬する風土がある。この風土が、苛烈な部活動を生み出す土壌になっているような気がするのだが、私の勝手な意見だろうか。
欧米は、まずもって学校が課外活動である部活動を日本ほど行っていないが、行っているケースも季節によって、スポーツの内容が変わるというのが通常だ。これは、スポーツに関する考え方が、根本的に違うからだ。欧米は、「一芸に秀でる」よりも「マルチに秀でる」ことが求められるのである。だから、陸上のKing of Athletesは、デカスロンやペタスロンの優勝者だし、スキーでも複合の価値が上である。トライアスロンなどいうスポーツを生み出したのも欧米である。この考え方は、10代の若者に多くのスポーツを経験させ、発達の可能性を広げることを意味するとともに、ケガの予防にもつながる。同じスポーツを続けると、同じ筋肉を同じ動きで使い続けるので、故障しやすくなるのである。野球肘とかジャンパー膝などというケガの名前にもなっている。球技をやって動体視力を鍛えるならば、水泳や長距離をやり持久力を鍛える。さらに基礎体力を鍛えるトレーニングを取り込むなど、マルチな視点が必要である。もう、「一芸に秀でる」ことを良しとする風土を、この部活動改革を機に改めてはどうだろうか。
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